新島襄といえば、同志社大学の前身・同志社英学校をつくったことで有名な人物。
というよりも、それくらいしか知らないという方も多いはず。
私もその一人でしたが、調べてみると凄まじい行動力を持った人物でした。
そこで今回は新島襄が日本脱出を計画し、密出国するまでについて簡単にご紹介します。
タップでお好きな項目へ:目次
アメリカへの憧れ
新島襄は安中藩(現在の群馬県安中市)の下級武士の子として生まれました。
十代の頃より当時の封建社会に疑問を持ち、さらに自由なアメリカ文化に強い興味を持っていたそうです。
しかしその頃は、日本人が海外へ出国することは禁じられていました。
箱館遊学へ
新島襄は22歳の頃、箱館(現在の北海道・函館)へと遊学します。
当時の箱館は国際都市であったため、外国人たちが多くいました。
そこで新島は外国人から英語を学ぶため、そして武田斐三郎(※)が教える学問所(諸術調所)に入るために箱館へ向かったのです。
福土成豊との出会い
しかし肝心の武田が江戸へ帰っていたため、ギリシャ正教会の司祭・ニコライの日本語教師を務めることになります。
諸術調所の塾頭・萱沼精一郎という人物が、苦労してニコライを紹介してくれたそうです。
そして新島は、福土成豊という人物に出会いました。
外国人居留地で働いていた福士は英語が堪能で、日本人で初めて本格的な気象観測を始めた人物でもあります。
そして何よりも福士には、欧米文化への理解がありました。
新島はそんな福士に、自身の『アメリカへ行きたい』という熱い思いをぶつけます。
函館からアメリカへ
元治元年(1864)6月14日、新島襄は福士成豊の力を借り、波止場から小舟で沖に出ました。
新島襄が箱館に滞在していた期間は40日間というのですから、かなり早めの行動だったことがうかがえますね。
日本を脱出
福士は新島のために小舟を借り、さらに3日間もリハーサルをしてくれたそうです。
その甲斐もあり、新島は停泊していたアメリカの商船『ベルリン』に乗り、箱館を脱出することに成功します。
そして中国の上海で、同じくアメリカの船『ワイルド・ロバー』に乗り換え、香港・マニラ・ケープタウンを経て、翌年7月にはアメリカのボストンに到着しました。
『襄』になった理由
さて、新島襄は幼名を七五三太、諱(※)を敬幹といいます。
新島『襄』という名前は、新島がワイルド・ロバー号の船長に『ジョー』と呼ばれていたこと、
さらに船主であったハーディー夫妻からも『ジョセフ』と呼ばれていたことから名乗るようになったそうです。
きょうのまとめ
今回は新島襄の日本脱出について、簡単にご紹介しましたがいかがでしたでしょうか。
② 新島襄が日本を脱出できた背景には、福土成豊らの助けがあった
③ 襄という名前は、アメリカに渡ったことがきっかけで名乗り始めた
こちらのサイトでは、他にも新島襄にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!
新島襄の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「新島襄とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
その他の人物はこちら
関連記事 >>>> 「【明治時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す