吉田兼好とは、部屋に籠もって『徒然草』ばかり書いていたでしょうか?
説教が好きなカタブツ出家者だったのでしょうか?
どんな人物だったのか、学校の古典の授業とは少しちがった角度から見てみましょう。
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吉田兼好はどんな人?
- 出身地:不明
- 生年月日:1283年?
- 死亡年月日:1352年?(享年70歳?)
- 鎌倉から南北朝、室町時代の戦乱の中に生き、『徒然草』を著した思想家法師
吉田兼好 年表
西暦(年齢)*年齢は1283年生まれとする
1283年(1歳)兼好誕生
1301年(19歳)後二条天皇の即位に伴い六位蔵人に任じられる
1307年(25歳)関東大地震、凶作、疫病流行
1313年(31歳)この頃までに出家、『徒然草』第1部を完了したと推定される
1318年(36歳)後醍醐天皇即位
1326年(44歳)3月、鎌倉幕府執権職に金沢貞顕、4月、最後の執権職に北条守時就任
1332年(50歳)後醍醐天皇隠岐に流刑
1333年(51歳)足利尊氏挙兵。鎌倉幕府滅亡。後醍醐天皇による建武の新政開始
1336年(54歳)南北朝分裂。この頃までに『徒然草』完成
1338年(56歳)足利尊氏征夷大将軍に就任。大飢饉
1352年(70歳)兼好死没
吉田兼好の多彩な才能と交流
吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝、室町時代に生きた歌人、随筆家、古典学者、能書家です。
本名は卜部兼好といい、出家後には兼好法師と呼ばれました。
京の吉田神社の神職・占部氏出身というのが通説です。
近年では、「滝口の武士」(従六位程度の官位を持つ朝廷の警護の兵のこと。)出身だったのではないかと言われています。
鎌倉幕府の執権となった金沢貞顕(北条貞顕)や九州探題の今川了俊といった身分の高い武士たちと兼好の交流は、職務がきっかけであったとすれば納得できます。
また、『徒然草』の中には武術を学ぶことの重要さも書かれているのは、元武士ならでは。
『徒然草』の作成時期については、鎌倉時代末期ごろという説が主流です。
兼好の出家は30歳前だろうと言われますが、その理由はわかりません。
出家後は大阪の正圓寺付近に庵を構え、仏道修行と和歌や文学的な素養を磨くことに専念しました。
公卿で歌人の二条為世に師事して和歌を学び、その腕前は二条派門下の四天王の一人とされるほどの実力。
晩年には足利尊氏の執事・高師直との関わりもありましたが、権力や富には執着せず、質素な生活をしていました。
没年については、1350年とも1352年とも言われています。
人間・吉田兼好
『徒然草』での兼好の一貫した姿勢と、彼の人間味あふれる逸話をご紹介します。
『徒然草』の無常観への共感
多彩な才能を持つ兼好の一番の業績は『徒然草』を著したことでしょう。
244段にわたって兼好の思索や雑感、逸話が漢字や仮名文字で順不同に語られます。
短編集のような作品で、各段に関連はありませんが、作品全体に一貫して流れるものは「無常観」。
彼が生きた時代は、戦乱が絶えず、饑饉や病などに人々が苦しめられた時代でした。
命のあるものはいつか死ぬ、形のあるものはいつか壊れる、といった「無常」を受け入れるのが、兼好自身の生き方だったのです。
彼の没後に弟子の命松丸や友人の今川了俊が『徒然草』を編纂。
平易な語り口と内容が乱世を生きる人々に少しずつ共感をもたらします。
そして兼好の死後100年経った江戸時代、『徒然草』は庶民の身近な古典となりました。
能書家兼好の使い方?高師直の場合
達筆で知られた兼好の書の実力を示すエピソードがあります。
足利尊氏の側近・高師直が、美人と評判の塩谷高貞の妻を口説こうとします。
そして、達筆で文才のある吉田兼好に恋文の代筆を依頼したのです。
ラブレターの内容が気になりますが、送られた文は高貞の妻が開きもせず、庭に捨ててしまったのだとか。
読んでもらえなければさすがの兼好もどうしようもありません。
この太平記の逸話は100%史実ではないかもしれません。
でも、きっと兼好は頼まれれば他人の恋文を書くのをいとわないほど親しみやすい人物だったのでしょうね。
ところで、兼好は『徒然草』35段で、文は文字が下手な人も遠慮をせずにどんどん書き散らせ、文字下手を隠そうと人に代筆をさせるのは見苦しいとも言っています。
あれっ? これってやってることと書いてることが矛盾してると思いませんか?
遁世者兼好とお金
兼好は遁世者として質素な生活をしていました。
が、一説には田畑などの資産があったからこそ文筆に没頭出来る生活ができたのだとも言われています。
兼好の時代には既に貨幣経済が定着していました。
年貢として米などの現物の代わりに宋銭で治める代銭納が現れ、金融業も盛ん。
清貧の兼好もお金なしに生きられない時代でした。
ここに、二条派の和歌四天王である兼好と、同じ四天王のひとり頓阿との間にお金に関するおもしろい和歌のやりとりがあります。
兼好が頓阿に歌を送ります。
秋の寝覚めの涼しさを詠んだこの和歌。
裏のメッセージがわかりますか?
句切れごとの頭文字と最後の文字を拾っていくと、ある言葉が浮かび上がるのです。
頭文字を合わせると「よねたまへ」、逆から句の最後の文字を拾えば「ぜにもほし」となるからくり。
お米とお金を無心する和歌だったのですね。
さすが和歌の達人頓阿は、その遊び心を見抜き、歌を返します。
夜も憂し
ねたく我が背子
果ては来ず
なほざいにだに
しばし訪ひませ
兼好に、うちにおいで、というのが表の意味です。
兼好の歌と同様に文字を拾えば「よねはなし、せにずこし」という裏のメッセージが。
ユーモア溢れる二人のやり取りを通して、兼好の人間味や貨幣生活が根付いている様子がわかる逸話です。
きょうのまとめ
最後までお読みいただきありがとうございました。
吉田兼好について簡単にまとめておきます。
① 戦乱と混乱の時代に生きた思想家
② 時代を反映した「無常観」を根底にした『徒然草』の著者
③ 思想家、能書家、和歌の達人、文章の達人と多彩であり、人間味あふれるユーモアの人
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手まくらも
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