明治から昭和初期にかけて、当時一般的でなかった女流歌人として一世を風靡した
与謝野晶子。
その作風は当時こそ賛否両論を集めましたが、現代になって読んでみるといかにも感情に訴えかけてくるものが並び、
「当時の人たちも心のどこかでは、こういった作品を求めていたのだろうな」という思いにさせられます。
そんな、思いの丈を包み隠さず表現することで革新を呼んだ彼女の短歌。
今回はそのなかから、わかりやすいものを抜粋し、いくつか紹介していきましょう。
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代表作『みだれ髪』より
やは肌の
やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君
「柔肌の体温に触れず、人生を語ってばかりではあなたも寂しいでしょう」
というこの歌は、みだれ髪のなかでも特に代表的な歌でしょう。
言葉を交わすよりも体を重ねてしまったほうが、分かり合えることもある…といわんばかりです。
みだれ髪にはこのような性的な描写が随所に登場し、そういった表現がタブーとされていた明治の世においては非常に斬新なものでした。
そのため批判する人が多かったことも否めませんが、晶子としてもそれは重々に承知していたことが、以下の句からはっきりとわかります。
人の子の
人の子の 恋をもとむる唇に 毒ある蜜を われぬらむ願い
意訳すると「年ごろの女の子の唇に、甘くて刺激的な恋の味を味あわせたい」という感じでしょうか。
前述の性的な描写にしてもそうですが、年ごろの女性にとって、恋愛は刺激の強い一面が付き物です。
だからこそおおっぴらにしないことが社会の風潮でした。
それを晶子が“毒”と承知のうえで表現したのは、世の女性に新しい価値観を芽生えさせたい想いがあったからでしょう。
物議をかもしたのも、実は狙い通りだったのかもしれません。
現代風にいえば炎上商法ですね!
君死にたまうことなかれ
みだれ髪も一部から反感を買った作品ではありましたが、それ以上に非難を浴びることになったのが、1904年に発表された『君死にたまうことなかれ』です。
この作品は日露戦争に駆り出された弟の無事を祈ることが大筋ですが、途中、天皇陛下に対する批判と見られる部分があったため問題視されることになります。
問題の箇所は以下のとおり。
すめらみことは 戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ もとよりいかで思されむ
現代風に訳すと「天皇陛下自身は戦場には行かないのに、国民に血を流させ、戦いのなかで死ぬことを名誉といわれるのですか?あなたが寛大であればそんなことは考えもしないでしょう」という感じです。
これは日本が戦争をしないと決めた現代においては正論のように思えますが、当時は国民のほとんどが戦争に賛成する押せ押せムード。
案の定晶子はバッシングを受け、特に当時の著名な作家・大町桂月との記事を通しての批判合戦は注目を集めました。
「国賊だ」と批判してきた桂月に対し、晶子は「自分の気持ちを正直に表現しないものなど、歌ではない」とやり返したのですから、根性がすわっています。
みだれ髪の性的な表現といい、時代の風潮に流されない強い意志を感じさせられますね。
晩年・温泉巡りをしながら詠んだ歌
結婚した当時こそ、自分が稼ぎ頭にならなければいけなかった晶子ですが、晩年は夫の収入も安定し、40代に入ってからは趣味の温泉巡りに没頭しました。
そんな穏やかな生活もあってか、このころの歌は若いころとはまた印象が違っています。
さみだれの
さみだれの 出羽の谷間の朝市に 傘して売るは おほむね女
「出羽」というのは現在の山形県・秋田県のことで、これは山形県の温海温泉に訪れた際の一句です。
「降りしきる雨のなか、朝市で商売に勤しむのはほとんどが女性である」というこの歌は、どこか女性も経済の一端をたしかに担っているという主張のようにも感じます。
このころに初の男女共学の学校設立に携わり、女性の社会進出を訴える評論なども発表するようになっていた晶子は、ゆったりと温泉巡りをするその最中でも、自分の命題について考え続けていたのでしょう。
霧深し
霧深し いかにたどれと云ふことか 北湯朝日の 温泉の道
栃木県の北温泉に訪れた際、詠まれたこの歌は、いかにも人知れずひっそり佇む温泉宿を目指しているような雰囲気。
そう、晶子の温泉巡りは有名どころのみならず、知る人ぞ知る秘境の温泉まで、全国を余すところなく巡られているのです。
上記の歌から、温泉に浸かるだけでなく、辿り着くその道すがらも楽しみになっていたことが伝わってきます。
ちなみに北温泉は当時こそ秘境とされていたものの、2012年公開の映画『テルマエ・ロマエ』のロケ地になったことで、現在はかなり有名になりました。
伊香保にて
伊香保にて 昔を少し思ふとき 赤城の山の 動き来るかな
群馬県の伊香保温泉を訪れたときの一句には、恋に身をゆだねた時代に想いを馳せる晶子の様子が描写されています。
「赤城山が動く」という表現は、「思い出すと今でもドキドキして、風景が揺れているように見える」ということでしょうか。
それほどに情熱的な恋だったからこそ、みだれ髪で見られた過激な表現にもなり得たのでしょう。
なんにしても、晩年になってもその胸の高鳴りを思い出せる夫婦仲だったことは微笑ましいですね。
きょうのまとめ
歌人として台頭してきた当初こそ、世間から反感を買うようなアグレッシブな内容が多かった与謝野晶子の短歌。
しかしだからこそ彼女は注目を集め、その名を史上に刻んでいったといえるでしょう。
またそういった経緯を知ったうえで晩年、穏やかになりつつも、彼女らしさが残る作品を味わうと、一層感慨深いものがあります。
これも晶子が力強く、懸命に生きてきたからこその味わい深さです。
最後に今回の内容をまとめておきましょう。
① 『みだれ髪』の性的な表現は物議をかもしたが、短歌界の革新を起こした。狙い通り?
② 戦争に湧く情勢のなか『君死にたまうことなかれ』で反戦の意を唱え、問題視される
③ 晩年は趣味の温泉巡りを楽しみながら穏やかな歌を残した
戦争もしなくなり、社会に出て活躍する女性もうんと増えた現代の日本を晶子が見れば、きっと浮かばれた気持ちになるはずですね。
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