1904年9月に発表された歌人・与謝野晶子の
2歳年下の弟に宛てて詠まれた『君死にたまうことなかれ』は、代表作の『みだれ髪』と並んでよく知られた作品です。
晶子は弟に対して、どんな想いを抱きながらこの作品を残したのか、
文中から真相を辿っていきましょう。
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『君死にたまうことなかれ』とは?
この歌は晶子の2歳年下の弟・籌三郎に宛てて詠まれたもの。
彼が1904~1905年の日露戦争に駆り出された際、晶子が無事を祈って詠んだ歌でした。
歌になっていることからもわかるように、籌三郎と晶子は5人兄弟のなかでも特に仲が良く、2人の交流は晶子が亡くなる1942年まで、絶えず続いたといいます。
そもそも晶子が22歳のころに入会した「浪華青年文学会」も、もとは一足先に籌三郎が入会していたものだったとか。
同じ趣味をもつ姉弟として、持ちつ持たれつの関係だったことが伺えます。
そして籌三郎へ宛てられた『君死にたまうことなかれ』は、天皇陛下への批判と取られ、当時、問題視されていた背景のある作品でもあります。
いったいどうしてそんな過激な言い草になってしまったのか…。
『君死にたまうことなかれ』の内容
親は戦争をさせるために可愛がったのではない
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまうことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
まずは冒頭から。この部分を意訳すると
「末っ子の君なら、親からは大層可愛がられて育ったに違いない。でもその親は、刃を握って人を殺せと教えたか?」という内容です。
晶子はいずれ嫁に行く身の女子として生まれたことや、実家の和菓子屋の経営が当時傾いていたことなどが重なり、両親からあまり可愛がってもらえませんでした。
そんな姉から見て弟の籌三郎をうらやましく思う部分もあったのかもしれません。
しかし、どんなに恵まれた幼少期を過ごしても、戦争で死んでしまっては元も子もないし、人を殺めるために両親は籌三郎を可愛がったのではない。
近くで見ていたからこその、やり切れない想いがこの部分には表れているように感じます。
家業を継いだばかりだった籌三郎
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
「旅順の城」というのは中国・遼東半島の旅順という場所に作られたロシアの要塞のこと。
その要塞を陥落させるべく日本軍は現地へ向かっていたのですが、晶子はこれに対して
「そんなこと、知ったこっちゃない。商人の家のおきてにはない」
と述べています。
実は日露戦争が始まる前年の1903年に父の宗七が亡くなり、籌三郎は家業の和菓子屋を継いだところでした。
長男の秀太朗は東大工学部の教授になったので、跡取りの役目が籌三郎に回ってきたのです。
新しい主として家を守っていこうという矢先のこと…「俺は商人なのに」と一番に思っていたのは、きっと籌三郎本人ではないでしょうか。
結婚したばかりでもあった…
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
家業を継いだばかりというだけでなく、籌三郎には結婚して間もない妻がいました。
「暖簾のかげに伏して泣く」というのは、夫が戦地へと駆り出されてしまった辛さに耐えながら、家業を切り盛りする彼女の様子を表しているかのようです。
籌三郎の当時の年齢は24歳。
「少女ごころ」と歌われているところをみると、奥さんはさらに若かったと考えられます。
その歳で新婚の夫と、わずか10ヵ月で別れてしまうというのはたしかに胸が締め付けられる思いがしますね。
同時に晶子が籌三郎と同じように、その妻に対しても懇意に接していたことが伝わってきます。
籌三郎はその文才で戦死を免れた
『君死にたまうことなかれ』を授業などで習うと、籌三郎については詳しく語られないため、「戦死した」と勘違いする人も多いようです。
たしかに歌の内容からはそう捉えられても仕方ありませんが…実際のところ、彼は戦争から無事に帰還しています。
姉ゆずりというのか、なんというか、文学に長けていた籌三郎は戦地でも将官の書記として重宝され、戦場へおもむくことはほとんどなかったのだとか。
なんでもほかの兵は文字が書けない人間ばかりで驚かされたといいます。
彼はその文才のおかげで生きて帰ってこれたのですね。
先述の兄・秀太朗は東大の教授、姉は明治を代表する女流作家とくれば、弟の籌三郎もやはり優秀なのです。
きょうのまとめ
与謝野晶子の『君死にたまうことなかれ』の内容がついつい過激になりすぎてしまった背景には、
晶子が幼少より一番近くで弟を見てきたことや、一家の主として新しい環境に身を置いたばかりの籌三郎を振り回してほしくないという姉心がありました。
もちろん晶子がもともと芯の強い性分というのもありますが、それにしてもタイミングが悪い印象です。
また当時の晶子は夫の鉄幹と恋に堕ちて実家から家出したばかりということもあり、家族のなかでは籌三郎が数少ない理解者だったというのも、あるのかもしれませんね。
最後に今回の内容をまとめておきましょう。
① 嫁に行く身だからと可愛がってもらえなかった晶子に対し、末っ子の籌三郎は親の愛を一身に受けて育った
② 籌三郎は家業を継いだばかり、結婚したばかりだった
③ 籌三郎は文章の才能があったため、将官の書記として重宝され、実際の戦場にはほとんど出向いていない
それにしてもこの『君死にたまうことなかれ』。
何度読んでも胸に刺さるような言い回しがなされていて、当時話題になったこともうなづかされます。
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