坂本龍馬の手紙の中の言葉として知られる「日本を今一度洗濯いたし申し候」。
これのオリジナルは横井小楠という幕末から明治にかけての思想家の言葉だったのをご存知ですか?
横井小楠は、坂本龍馬をはじめとする多くの人々に影響を与えた人物なのです。
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何度も話し合った横井小楠と坂本龍馬
横井小楠と坂本龍馬は場所を変えて6回顔を合わせ、日本のあるべき姿について意見交換しています。
小楠と龍馬の6度の会談
【1862年8月 江戸にて】
最初に小楠が龍馬に会ったのは、江戸にある福井藩邸でした。
小楠は政治顧問として福井藩に招聘されており、福井藩主である松平春嶽に紹介されたのです。
【1863年5月、7月 福井にて】
1862年に小楠が武士にあるまじき振る舞いをしたと誤解された士道忘却事件。
処分により、小楠は翌年の8月以降浪人となりました。その少し前に龍馬が福井にいた小楠を訪ねています。
【1864年2月、4月 熊本にて】
2月、長崎へ赴いた勝海舟の使いで、龍馬が小楠の熊本の私塾・四時軒を訪問。
この時、徳富蘇峰(ジャーナリスト・思想家)と蘆花(小説家)の父で、小楠の第一の弟子だった徳富一敬も同席しています。
その際小楠は、1862年に起草した幕府への建白書「国是七条」を龍馬に説きました。
同時に小楠の甥の左平太と太平、肥後藩士・岩尾内蔵の3人を神戸海軍操練所に入所できるよう、龍馬を通じて海舟に依頼しています。
4月には、長崎からの帰りに熊本を訪れた勝海舟の使いとして再び龍馬が、小楠を訪ねました。その際、前回小楠が依頼していた3名が神戸操練所塾生として弟子入りすることが出来ました。
【1864年5月 熊本にて】
2人が顔を合わした最後の時です。薩摩からの帰りに龍馬が個人的に小楠を訪問。
この際第二次長州征討は、長州に非があるので正統だという小楠に対し、龍馬が激しく反対して口論になり、喧嘩別れしてしまいました。
喧嘩しても小楠をリスペクトした龍馬
小楠と龍馬の喧嘩の原因は、2人の考え方のズレ。
幕府の改革を推進していたころと違い、熊本の郊外で生活していた浪人の小楠の考えは、現実問題に直面して幕府を見切った龍馬との間に違いが生まれたのも当然です。
龍馬は長州の高杉晋作たちを擁護し、「薩長同盟」に向けて小楠の力を借りたかったのですが、小楠は長州藩が悪いとの一点張りで2人の主張は平行線を辿り、物別れに終わったのです。
しかし、龍馬はその後も小楠への尊敬の念を持ち続けました。
1867年、龍馬は暗殺される直前に作った
・新国家構想の「船中八策」とその後に作られた「新政府綱領八策」には、横井小楠が作成した「国是七条」の思想を多く採用
しています。
喧嘩したとはいえ、龍馬は小楠の考え方を高く評価していたのです。
龍馬は同年12月に近江屋事件で殺害されました。
横井小楠と議論を交した人々
横井小楠に影響を受けた人は、坂本龍馬だけではありませんでした。
横井小楠と吉田松陰
横井小楠は、吉田松陰とも1度会っています。
長州藩士で思想家・教育者だった松陰は、幕末から明治にかけて活躍した人材を多く輩出した私塾「松下村塾」を開いた人物で知られていますね。
小楠が1850年に長州の萩に吉田松陰を訪ねた時には会えず、1853年に松陰が熊本の小楠を訪ねて対面が実現しました。
黒船来航で西洋文化に魅せられた松陰が、長崎に帰港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込みに行こうとするその途中で熊本に寄り、小楠と3日間議論しました。
話し合いのあと小楠の思想に感銘を受けた松陰は、彼の長州藩への招聘を考えて、彼に長州藩士の指導を頼む手紙も書いています。
その後、松陰の弟子の高杉晋作も、小楠を長州藩の学頭兼兵制相談役に招きたい と小楠の弟子に相談したという話が残っています。
結局松陰は、ロシア軍艦への乗船を逃し、1854年の浦賀に再来港したペリーの黒船での渡航も拒否されて失敗して投獄され、のち自宅軟禁となりました。
松陰が1857年に開いた松下村塾では、
・久坂玄瑞
・吉田稔麿
・伊藤博文
・山縣有朋
など数々の幕末・明治の偉人が育っています。
松下村塾で小楠の考えについて語られたこともあったことでしょう。
横井小楠と勝海舟
1862年、越前藩の政治顧問だった横井小楠の元に、軍艦奉行並の勝海舟が訪れました。
その際、小楠は海舟にこれからの日本には全国諸侯の一致と海軍振興が必要だと説きました。
もともと開国論者だった小楠ですが、幕府が「私的」に結んだ日本に不利な日米修好通商条約は、決戦覚悟で破棄する攘夷を実行すべきだと主張。
これは、単なる外国人の排除・殺害のための攘夷ではなく、
「開国をするために海軍を発展させ、公議によって国是を決定する新たな国造りを目指そう」
という発展的考え方を示しました。
海舟は小楠のことを
・「尋常の尺ではわからない人物」
・「途方もない聡明な人」
そう呼んで尊敬したそうです。
横井小楠と岩倉具視
岩倉具視も小楠の能力を見抜き、彼の新政府登用を考えました。
1867年、京都の熊本藩邸に新政府に小楠を登用したいという通知を送付。
しかし、当時小楠は1862年の士道忘却事件で家禄召し上げ、士籍剥奪処分を受け、熊本郊外沼山津にある「四時軒」に暮らす身分。
藩としては「病気辞退」として登用を断ります。
しかし具視は1868年に再度小楠に上京命令を出し、ついに折れた熊本藩はそれを認めて、小楠が新政府参与として登用されたのです。
激務に体調を崩しながらも、岩倉具視の私邸で毎晩のように相談に乗っていた小楠。
しかし、翌年の1869年正月に暗殺されてしまいました。
きょうのまとめ
今回は幕末・明治の思想家横井小楠が影響を与えた坂本龍馬をはじめとする人々との交流についてご紹介しました。
簡単なまとめ
① 坂本龍馬は横井小楠との最後の対面では口論となり物別れとなったが、その後も小楠を尊敬し続けていた
② 坂本龍馬が作った新国家構想には小楠の「国是七条」などが大きく影響している
③ 小楠は吉田松陰、勝海舟、岩倉具視など幕末維新に活躍した優秀な人材にも大きく影響し、尊敬されていた
小楠の功績は、幕府や新政府への直接的な働きだけではなく、当時活躍した思想家、活動家、政治家たちとの交流を通して、彼らの思想的バックボーンとなったことなのです。
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