織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康と時代の流れと共に、
主を変えて戦国の世を生き抜いた山内一豊。
その出世は妻・千代の手助けも大きかったと伝わっています。
千代が一豊を助けた「内助の功」のエピソードはどれも有名なものばかりですが、
信憑性が疑われるものも中にはあります。
「笠の緒文」と並んで最も有名なエピソードである、
千代が一豊に名馬を購入した逸話も疑われるポイントがいくつかあります。
今回はその信憑性について詳しく解説していきます。
どうぞ最後までお読みください。
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一豊の馬の逸話とは?
「藩翰譜」、「常山記談」、「鳩巣小説」などの随筆集に収録されている、この一豊の逸話は、
千代がそれまで貯めていたお金十両を使って一豊に名馬を購入した」
というものです。
では、この逸話のどこに信憑性に欠ける部分があるのでしょうか?
馬一頭買える余裕はあった?
まず、この信長の馬揃えが行われた時期に関しては、
3つの随筆集には天正9年(1581年)2月28日に行われた「京都御馬揃え」のことと記載されています。
しかしこの時期には一豊は、秀吉の下で武功を重ねて2000石の身であったため、馬一頭買えるだけのお金は持っていたのではないか。
という疑問が生まれます。
1石は米150キロ分に相当します。
つまり一豊は米を300トンも買えるだけのお金を既に持っていたのです。
もしこの逸話が事実であるならば、「京都御馬揃え」よりも早い時期の馬揃えの話でないと整合性が取れません。
距離が遠すぎる?
その話を聞いた千代は一豊に黄金を差し出し、一豊は商人のもとに慌てて戻って名馬を購入します。」
しかしこの部分に疑問が残ります。
上記にも挙げましたが、この逸話が収録されている3つの書物にはいずれも「京都御馬揃え」の時期であると書かれています。
そうなると、一豊が名馬を購入した時期は天正9年よりも少し前の話になります。
この頃の一豊は播磨(兵庫県)に2000石の領地をもらっています。
そして名馬が売られていた場所は安土城の城下町です。
播磨(兵庫県)に帰ってから安土城のある近江(滋賀県)までわざわざ戻っていったことになります。
京を越えて片道80~100キロ以上はある距離を、一豊は商人が馬を売っている間に戻らないといけません。
たとえ馬に乗って移動したとしても、これほどの遠い距離を移動して間に合うことは可能なのでしょうか?
千代のお金の出所は?
「藩翰譜」、「常山記談」では父から与えられたお金を一豊に使ったと記されており、「鳩巣小説」では母から与えられたお金を一豊に使ったと記されています。
いずれにせよこのお金を千代は一豊に渡すわけですが、「藩翰譜」には、このお金を千代は鏡箱に隠しており、それを一豊に渡しています。
「藩翰譜」を編集した新井白石も、千代が鏡箱に十両もの大金を隠していた点に関しては疑問視しています。
当時は女性が家に嫁ぐ時、「化粧料」といって女性にはお金や土地の権利、財産などが引き継がれました。
千代はまだ生活が貧しい頃の一豊に、この化粧料を使って名馬を購入してあげたのではないでしょうか。
きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか。
一豊が名馬を購入したという話そのものが信憑性に欠けるということではありませんが、
馬を購入した時期や場所に関しては疑問視する点があるということですね。
しかし、一豊が生活に困っている時期に千代が手助けをした話は他にも多く存在します。
越前(福井県)の戦への準備金に四苦八苦していた一豊に千代がお金を差し出したという逸話や、一豊の経費のために髪を売ったという逸話など様々です。
これらの逸話があることから、千代が一豊に「内助の功」を行ったことは間違いではないと考えても良いのではないでしょうか。
山内一豊については、他にも様々な記事を書いています。
興味のある方は是非御覧になってください。
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