「笠の緒文」と、小山評定での行いが徳川家康に評価され、土佐一国20万2600石の国主に君臨した
山内一豊。
一豊の一族、土佐山内家はその後、270年以上にも渡って土佐を支配し続け、土佐藩の祖として歴史にその名を刻みました。
戦国時代でも類を見ない大出世を成し遂げたことで、一豊以後の土佐山内家は「名門」として広く認識されることになりますが、
一豊が生まれた時、山内家の格式はいったいどれくらいのものだったのでしょうか?
そして270年もの間、土佐山内家はどのようにして藩主の座を存続させていったのでしょうか?
今回は山内一豊の家系図と一豊の一族について詳しく解説していきます。
どうぞ最後までお読みください。
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山内一豊の家系図
まずは山内一豊の家系図をみてみましょう。
一豊の出自について
一豊の生まれた家柄については、寛政年間(1789年~1801年)に幕府が編集した、
大名の家系図をまとめた史料である寛政重修諸家譜に記述があります。
平将門を討伐したことで知られ、大百足を退治したという伝説を持つ平安時代の名将、藤原秀郷を祖とする、
山内首藤家の支流であると記述されています。
山内首藤家は当初、藤原姓を名乗っていましたが、その後首藤姓に改めました。
さらに年月を経て、一族が鎌倉の山内庄を本拠地としたので、山内の名を名乗るようになったと伝わっています。
しかし、寛政重修諸家譜の土佐山内家のこのような記述はあくまでも土佐藩の自称であり、山内家が山内首藤家の一族だったのかについて確かな史料はありません。
山内家が歴史に現れるようになるのは、一豊の祖父である久豊の代になってからです。
それ以前の先祖に関しては名前すら分かっていないため、先祖が山内首藤家の一族かどうかについても実際には不明なのです。
久豊は、尾張国(愛知県西部)の武士であったことが分かっているため、「尾張の武士を先祖に持つ一族だったのではないか」という説が存在します。
また、父の盛豊は織田信長の一族である織田信安に重臣として仕え、尾張の黒田城主であったので、一豊が格式の高い家柄の出であったことは間違いないでしょう。
土佐藩主として君臨し続けた一豊の一族
悲劇を乗り越え、苦労の末の家督相続
一豊が土佐藩の藩主の座に就いてから、土佐山内家は一貫して土佐一国を江戸幕府の終焉まで支配し続けました。
一豊は子宝にはあまり恵まれず、唯一の実子であった長女の与祢は、天正13年(1586年)に起きた大地震によって、わずか6歳で亡くなるという悲劇にあっています。
この時の一豊と妻・千代の悲しみはただならぬものだったことでしょう。
その後、一豊は弟の康豊の嫡男である忠義を養子に迎え、2代目の土佐藩主として擁立します。
慶長10年(1605年)に一豊が亡くなると、年少で当主となった忠義を、康豊が補佐する形で土佐藩は存続します。
このように、一豊は悲劇と苦難の末に家督相続を果たし、60年の生涯に幕を下ろします。
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土佐山内家のその後
その後、土佐山内家は世継ぎの男子に恵まれなかったり、若くして当主が亡くなってしまった際には、養子を迎えたり、弟や従弟が当主の座を継いで、土佐藩を存続させました。
土佐藩は江戸時代の中頃までは安定した政治を行っていたのですが、9代藩主豊雍の代には、天明の大飢饉が起こって財政が貧窮します。
しかし豊雍は、天明の改革と呼ばれる藩財政の建て直しを行い、質素倹約に努めたことで、土佐藩の危機を救いました。
15代当主の豊信は「幕末の四賢侯」の一人として、幕末の時代において大いに活躍しました。
そして、土佐藩は16代藩主豊範の代まで、約270年もの間、その命脈を保つことになるのです。
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きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか。
一豊は徳川家康にその忠誠心を信用され、土佐一国を与えられた後も、
藩の存続という務めを苦難に負けることなく見事に果たし、土佐藩の祖として歴史に名を残したのです。
その後、土佐藩が幕末において再び活躍し、脚光を浴びることになったのも、
一豊以後の一族が命脈を保ち続けたからであり、山内一豊と土佐藩の歴史には壮大なロマンを感じずにはいられませんね。
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