宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍の主力でした。
敗戦後、宇喜多家はどのように続いていったのでしょうか。
今回は八丈島に残る宇喜多秀家の子孫に関するお話です。
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関ヶ原の戦い後
八丈島へ
戦後、薩摩の島津氏を頼って薩摩へ逃亡しますが、
島津家も徳川幕府に臣従するようになり宇喜多秀家をかばいきれなくなります。
秀家の身柄は徳川幕府に引き渡されました。
縁戚にあたる前田家の働きかけにより、罪一等が減じられ八丈島へ流罪となります。
ともに流刑になった子の秀高と秀継が血脈を残し、現在でも八丈島に彼らの子孫が残っています。
秀家の暮らしぶり
大名育ちの彼にとっては厳しい流人生活だったようです。
ある時、彼は八丈島の幕府代官に食事に招かれました。
彼は大変喜び、その一部を家来に持ち帰ったと言われています。
きっと質素な食生活だったのでしょう。
秀家の正室は加賀前田家出身の豪姫で、彼女は実家の前田家に戻っていました。
共に流罪になった息子二人に乳母をつけ、付け人や専属の医師も派遣しています。
また、前田家から仕送りが2年に1度ありました。(幕府の許可を得て仕送りがなされていました)
この前田家からの仕送りは幕末まで続きます。
ちなみに秀家は83歳の長寿を全うしました。
現代に残る秀家の子孫たち
秀家の息子たちが現代まで血脈を残しています。
20の分家があったと言われています。
「浮田」や「喜田」に名字を変えた家もありました。
明治維新後に本土へ移住した家もありました。
この本土移住にも前田家が関わっています。
「最後まで面倒を見る」前田家の誇りさえ感じますね。
江戸時代を通じて前田家は仕送りを続け、江戸幕府が滅んでも縁戚の援助を続けたのです。
大変律儀な家だったのでしょう。
一方で八丈島に残り、墓守をしている家もあり、秀家の子孫はいろいろなところに残っています。
現在の宇喜多家当主は岡山城の築城400年の式典に出席しています。
関ケ原の戦いで西軍に味方して残った数少ない家です。
きょうのまとめ
今回は宇喜多秀家の子孫に関するお話でした。
戦争に負けると一族根絶やしになる時代。
関ヶ原の戦いのあとの大坂夏の陣では豊臣家が滅ぼされ、正室・北政所の一族は徳川幕府に忠誠を誓い、生き残りました。
ただし、幕府から優遇されていたわけではありません。
一度、負け組になると復活は難しかったのです。
その中で宇喜多家は八丈島に根を下ろし、明治維新を超え、現代まで血脈を残したのです。
立派というほかはありませんね。
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