武田信玄との激闘や、その神がかり的な采配が後世にまで語り継がれている「軍神」
上杉謙信。
彼は戦国武将の中でも筋金入りの刀の愛好家で、
謙信が所有していた様々な刀の数々は現在、国の重要文化財や国宝に指定されています。
人生の大半を戦に捧げた謙信の愛刀とは一体どのようなものなのでしょうか。
今回は後世まで語り継がれている中でも、特に有名な刀を5つご紹介します。
どうぞ最後までお読みになってください。
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上杉謙信の名刀5選
竹俣兼光(たけのまたかねみつ)
竹俣兼光は、備前国(現在の岡山県)の刀鍛冶である、備前長船兼光の作品です。
謙信の家臣、竹俣慶綱が謙信に献上したことからこの名で呼ばれています。
・謙信がこの刀で一両筒の火縄銃を斬った
という数々の伝説があり、
・一両筒
・鉄砲斬り兼光
とも呼ばれています。
謙信死後に養子である景勝が豊臣秀吉に献上しましたが、後に大坂の陣で大坂城が落ちた際、行方がわからなくなってしまい
現在も所在が分からないままになっていると伝わっています。
典厩割国宗(てんきゅうわりくにむね)
典厩割国宗は、備前三郎国宗の作品です。
永禄4年(1561年)、第4次川中島の戦いで謙信が武田信玄の実弟、信繁を斬ったと伝わる刀です。
「典厩」とは、信繁が朝廷から授かった官職である「左馬助」の別名です。
典厩(信繁)を割った国宗。という意味ですね。
謙信が北条家と戦った際、援軍として加勢した佐竹義重に
謙信自らこの刀をお礼の品として贈ります。
それから佐竹家の家宝として扱われたと伝わっています。
現在は京都府の井伊美術館に所蔵されています。
姫鶴一文字(ひめつるいちもんじ)
姫鶴一文字は、備前国の刀鍛冶が福岡に渡り、そこから広まった一派である
福岡一文字派の刀鍛冶の作品です。
謙信の愛刀として名高く、国の重要文化財に指定されています。
明治14年(1881年)、愛刀家である明治天皇は
東北地方を巡幸した際には米沢にある上杉家に立ち寄り、翌日の予定をキャンセルして上杉家に伝わる数々の名刀を夢中になって閲覧されました。
そしてこの姫鶴一文字を特に気に入り、押型(刀の拓本)を持ち帰ったと伝わっています。
現在は米沢市の上杉博物館に所蔵されています。
塩留めの太刀(しおどめのたち)
塩留めの太刀は、謙信と信玄の有名なエピソードである「敵に塩を送る」話に登場する刀です。
備前国一文字派の刀鍛冶の作品です。
信玄は今川義元が桶狭間の戦いで戦死した後、今川家との同盟を破棄して駿河に侵攻します。
これに対して義元の後継ぎである今川氏真は、報復として信玄の領国である甲斐への塩の輸出を禁止します。
信玄の領国の甲斐は内地である為に塩を生産することができません。
この話を聞いた謙信は
と言って
敵方であるにもかかわらず、甲斐の領民を助ける為に塩を武田家に援助します。
これに感謝した信玄が謙信への謝礼品として贈った刀が
この「塩留めの太刀」です。
国の重要文化財に指定されているこの刀は現在、東京国立博物館に所蔵されています。
謙信景光(けんしんかげみつ)
謙信景光は、備前長船景光の作品です。
謙信が愛用していたことからこの名が付きました。
謙信の愛刀であった姫鶴一文字と共に、謙信が常に帯刀していたと伝わる短刀です。
現在は国宝に指定されており
埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵しています。
きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか。
謙信が愛した刀はその後、養子の景勝に引き継がれます。
謙信と同じく愛刀家であった景勝は、謙信の遺した刀の中から特に気に入った刀を選んだ
「上杉家御手選三十五腰」という目録を作っています。
謙信が遺した刀は、上杉家のみならず、国の至宝として現在まで大事に保存されています。
上杉謙信については他にも様々な記事を書いています。
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