家紋とは日本独自の文化であり、古くは平安時代から自らの家柄を表すシンボルとして
先祖代々から引き継がれているものです。
家紋はそれ1つでその家の格の全てを表しています。
上杉謙信の家紋には現在まで2つの家紋が伝わっており、どちらも謙信の働きによって授けられたものです。
では、その2つの家紋はどのようにして与えられたものなのでしょうか。
その由来について解説していきます。
どうぞ最後までお読みになってください。
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上杉謙信の用いた家紋
謙信の元々の家紋とは?
謙信は元々は上杉の姓を名乗る前、長尾氏の一族であり、長尾景虎と名乗っていました。
長尾氏は桓武天皇の子孫である桓武平氏の血を受け継ぐ鎌倉氏の一族です。
長尾氏は関東管領を代々務めていた上杉氏の筆頭家老として、長年上杉氏を支えていました。
その長尾氏の家紋は「九曜紋」と言い、桓武平氏の流れを組む様々な武家はこの家紋を使用していた為、
長尾氏もその1つとしてこの家紋を用いていました。
では、一体どのような経緯で家紋が変わることになったのでしょうか。
関東管領の相続と同時に家紋を授かる
天文15年(1546年)に河越城の戦いで北条氏康に歴史的な大敗を喫した、
関東管領、上杉憲政。
その後も武田信玄や北条氏康に押され続け、自らの居城であった平井城を落とされて権力を失います。
元々家来の筋であった長尾氏の当主、越後の長尾景虎の元へと逃れました。
そして景虎は憲政を助ける為、北条氏の討伐を決意。関東への出兵を開始します。
北条氏の城を次々に落としていく景虎の軍は、北条氏と敵対する北関東の諸将の軍勢を味方につけ、その数は10万人にもなったと伝えられています。
景虎は北条氏の本拠地である小田原城を包囲して氏康を追い詰めます。
しかし、長期的な出兵で味方からは不満が頻出しており、武田信玄が隙をついて景虎の領地に侵攻してきたことも相まって景虎は包囲を断念。兵を退きます。
永禄4年(1561年)、軍を退却している途中に立ち寄った鎌倉の鶴岡八幡宮で、
憲政は自らを没落させた北条氏康を追い詰めた景虎の武勇を認め、
関東管領の職と「上杉」の名前、家系図や家宝を授けました。
そして景虎はこの時から憲政の「政」の一文字を拝領して
「上杉政虎」と名乗り始め、自らの家紋も「九曜紋」から上杉氏に代々伝わる「竹に飛び雀」を用いるようになったのです。
そしてこの家紋は謙信の養子である景勝に受け継がれ、
景勝が米沢で藩主となった後もその家紋として代々受け継がれていくことになるのです。
天皇に謁見して「五七桐」の家紋を授かる
「竹に飛び雀」の他に、もう1つ謙信は「五七桐」の家紋も用いていました。
この「五七桐」は天皇家や幕府の象徴として使われていた家紋であり
現在も日本政府の紋章として使われています。
謙信がこの家紋を使用することができた理由は、天皇に「義」を通した為でした。
謙信は長尾家の家督を継いで当主となった後、天文22年(1553年)に京への上洛を果たし、
後奈良天皇と時の将軍、足利義輝に謁見しています。
この際に謙信は後奈良天皇から剣と杯を与えられて、「敵を討伐するべし」との勅命を受けました。
その6年後の永禄2年(1559年)、再び上洛して正親町天皇と足利義輝に謁見します。
この再度の上洛に感激した正親町天皇が謙信の朝廷への忠義を評価して
「五七桐」の家紋を授けたと伝わっています。
この当時、天皇に謁見するということは自らの国を留守にするという事であり、
各地で合戦が起こっている中で、兵を率いて天皇の元へ向かう事はそれだけで危険が生じるものでした。
しかし、謙信は朝廷と幕府の権威をしっかりと重んじていた為に、遠い東北の地から京まで兵を率いて天皇の元に参じたのです。
謙信は授かった「五七桐」の家紋の絵柄を少し変えて「上杉桐」として
家紋に用いたと伝わっています。
きょうのまとめ
謙信が用いた家紋はいずれも謙信自身の働きによって授かったものでした。
謙信の家紋の由来を見ても、いかに謙信が武勇に優れ、
忠義を貫く人物だったかが分かりますね。
上杉謙信については他にも様々な記事を書いています。
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