第10代水戸藩主・徳川慶篤。
第15代将軍・徳川慶喜の一番上のお兄さんです。
大河ドラマ『青天を衝け』では、中島歩さんが配役を担当。
あの慶喜公の兄というわりに聞き覚えがなく、どんな活躍をした人なのか気になるところですよね。
渋沢栄一とは直接関わりはないのですが、その主君・慶喜とのエピソードは随所に登場します。
徳川慶篤とはどんな人なのか、その生涯と功績を辿ってみましょう。
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徳川慶篤はどんな人?
- 出身地:江戸・水戸徳川家上屋敷(現・文京区後楽1丁目)
- 生年月日:1832年6月1日
- 死亡年月日:1868年4月27日(享年37歳)
- 第10代水戸藩主。将軍・徳川慶喜の兄。父・徳川斉昭の陰に隠れ、なかなか実権を握れず。晩年は藩の混乱を抑えられず、水戸藩を衰退させてしまう。
徳川慶篤 年表
西暦(年齢)
1832年(1歳)江戸・水戸徳川上屋敷にて、第9代水戸藩主・徳川斉昭の長男として生まれる。
1844年(13歳)父斉昭の謹慎に伴い、第10代水戸藩主となる。
1852年(21歳)有栖川宮幟仁親王の第一王女・線姫と結婚。
1858年(27歳)「安政の大獄」により、江戸城登城停止に処される。
1863年(32歳)将軍・徳川家茂に従い上洛。横浜鎖港の協議に携わる。
1864年(33歳)水戸藩士による「天狗党の乱」が勃発。内乱鎮圧のため討伐隊を送る。
1868年(37歳)朝廷からの勅命により、水戸藩の保守門閥派・諸生党を鎮圧。その最中、水戸城にて没する。
徳川慶篤の生涯
ここから、徳川慶篤の生涯について、詳しいエピソードを見ていきましょう。
徳川斉昭の謹慎で水戸藩主に
1832年、徳川慶篤は、第9代水戸藩主・徳川斉昭の長男として生まれます。
父の斉昭は幕末きっての攘夷派。
(※攘夷…外国人を日本から追い払おうという考え)
1844年には、過激な攘夷活動を理由に幕府から謹慎を命じられてしまいます。
こうして、水戸藩主の座は慶篤に譲られることに。
とはいえ、このとき慶篤はまだ13歳と幼かったゆえ、高松、守山、府中を治める分家筋の藩主3名が後見人となりました。
藩政は重臣によって行われ、慶篤は名目上藩主とされているだけの状態です。
1849年になると諸藩主たちの後見職が解かれ、謹慎していた斉昭が藩制に復帰。
『青天を衝け』で描かれているようにやる気満々の人ですから、いよいよ慶篤の出番はなくなってしまいます。
こういった背景から、慶篤は晩年まで目立った活躍がないんですよね。
ドラマ6話では、弟慶喜とともに
「もういい歳ですからそろそろ隠居されては…」
と、斉昭に進言するシーンも見られました。
「安政の大獄」と水戸藩の派閥分裂
1858年になると、大老・井伊直弼が幕府の実権を握ったことにより、「日米修好通商条約」が締結されます。
バリバリの攘夷派である水戸藩は、もちろんこれに大反発。
なにより締結に反対していた孝明天皇の意向を無視したことに猛抗議します。
このとき慶篤は斉昭らとともに江戸城に登り、井伊直弼に尋問を行いました。
しかし藩主は通常、登城日と決められた日以外、江戸城に入ることが許されていません。
その禁を破った罪に問われ、慶篤は登城停止処分に。
斉昭はそれよりずっと重い永蟄居の刑に処されてしまいます。
(※永蟄居…無期限の謹慎)
こののち、孝明天皇は無許可で条約を結んだ幕府を非難。
幕政改革を指示する「戊午の密勅」を、水戸藩に下賜しました。
この非難文が広まることで、政権が転覆するのを恐れた幕府は、首謀者と見られる反対派の大弾圧を行っていきます(安政の大獄)。
そして天皇と和解のうえ、水戸藩には勅書の返納が求められました。
この勅書返納を巡って、水戸藩は以下のような派閥に分かれてしまうのです。
・鎮派(のち諸生党を結成):「すみやかに返納を行うべきだ」
以後、幕府への反感を強めた激派は「桜田門外の変」「坂下門外の変」など、幕府重臣の襲撃事件をたびたび起こし、慶篤もその対応に追われることとなります。
ちなみに、激派は主に下士官出身で、徳川斉昭の藩主就任によって出世した人物を中心とする派閥。
対する鎮派は家格によって重用されていた家臣たちで、激派の出世により官職を取って代わられた背景があります。
その確執が、勅書の返納問題で表面化したわけですね。
「天狗党の乱」で水戸藩は大混乱!?
1864年、このあとの水戸藩衰退の決定打となる一大事件が勃発しました。
水戸藩激派の天狗党が幕府に対して挙兵する「天狗党の乱」です。
この前年のこと、将軍・徳川家茂が朝廷との協議のために上洛。
後見人である一橋慶喜がこれに追随します。
水戸徳川家から養子に出された慶喜には家臣が少なかったため、慶篤も水戸藩から家臣を連れて同行することになりました。
このときの協議で朝廷から提示されたのは、攘夷の勅命。
具体的には、条約締結によって外国船の出入りを許していた横浜港の鎖港です。
幕府は勅命に従って諸外国との交渉を試みるも受け入れられず、鎖港をなかなか実行に移せない状況にありました。
そんな幕府にしびれを切らしたのが、慶篤に伴って上洛していた藤田小四郎ら、水戸藩激派の面々です。
藤田らは水戸へ戻ると、天狗党を名乗って決起。
横浜の即時鎖港を求め、幕府に対して挙兵します。
これを見て動き出したのが、水戸藩鎮派です。
鎮派の面々は「諸生党」を結成し、藩内の激派を家族もろとも排斥。
水戸城を占拠し、藩政の実権を握ろうとします。
このとき、江戸に居た慶篤は鎮派の動向を知って驚き、内乱鎮圧のため討伐隊を派遣しました。
ただ、討伐隊の水戸城入城は諸生党によって拒否され、ここに天狗党もなだれ込む大乱戦へと発展してしまうのです。
討伐隊は天狗党と同じ暴徒と見なされることに。
こうして幕府軍と諸生党の共闘により、天狗党と討伐隊が追い払われてしまいます(那珂湊の戦い)。
このあと、天狗党は朝廷に直訴するため上洛を目指しますが、幕府の追討軍により道半ばで降伏することに。
慶篤はほとんどなにもできないまま、以降、諸生党に藩政を握られてしまうのです。
水戸藩の衰退を決定づけた諸生党討伐
1868年、戊辰戦争が勃発すると、朝廷から在京水戸藩士に向け、諸生党の討伐が命じられます。
藩主の慶篤を差し置き、諸生党が実権を握っているのはクーデターであり、明らかに異常事態。
朝廷は藩政の正常化を求めてきたわけです。
慶篤は、弟慶喜からアドバイスされ、この勅命に即座に従いました。
結果、水戸徳川家は朝敵になることを免れ、政府の討伐対象にならずに済むのです。
幕府の代表である慶喜自身が一番危ういこの時期に、それでも兄の進退を気遣う…やっぱり器の大きい人なんですよね、慶喜公って。
ただ、この諸生党討伐によって、水戸藩はトドメを刺されたといって過言ではありません。
勅命が下ったのをいいことに、水戸城下では天狗党の残党による虐殺が行われることに。
手あたり次第に報復を行ったため、諸生党の親族はもちろん、罪のない農民などにも被害は及んだといいます。
その最中、慶篤は水戸城内にて、37歳の若さで病没。
互いに排斥し合った激派・鎮派はどちらも大きく数を減らすこととなり、水戸藩は維新とともに衰退していったのです。
きょうのまとめ
前半生は父斉昭の存在感に隠れ、後半生は藩の派閥争いに振り回され…。
おまけに若くして亡くなってしまったため、これといった逸話が残っていない徳川慶篤。
…なにもしてなくない?
と言いたくなりますが、単にこの時代の水戸藩が荒れすぎなだけです。
幕府重臣の襲撃事件といい、天狗党の挙兵といい、慶篤も頭を抱えっぱなしだったのでは?
最後に今回のまとめです。
① 徳川慶篤は父斉昭の跡を継いで水戸藩主になる。しかしその後も重臣や斉昭が実権を握り続けた。
② 「安政の大獄」を期に、水戸藩は幕府に恭順する鎮派、幕府に反発する激派に分裂する。「天狗党の乱」で激派が排斥され、鎮派・諸生党が実権を握ることに。
③ 戊辰戦争では諸生党討伐の勅命がくだり、慶篤がこれに応じたため、水戸徳川家は朝敵にならずに済んだ。ただ、激派・鎮派両方が排斥し合った水戸藩は、以後大きく衰退していった。
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