徳川昭武とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

徳川御三卿・清水家当主、第11代水戸藩主、水戸藩知事

と、さまざまな肩書きを歴任した

徳川昭武とくがわあきたけ

大河ドラマ『青天を衝け』では板垣李光人りひとさんが配役に選ばれました。

昭武は渋沢栄一の転機となったパリ万博出展に際し、将軍名代を務めた人物。

各国の日本に対する認識を改めると同時に、多くの知見を持ち帰る功績を残しています。

栄一との関係性も深いことから、ドラマでも相当な活躍が期待できるんですよね。

徳川昭武とはいったいどんな人物だったのか、今回はその生涯を辿ってみましょう。

 

徳川昭武はどんな人?

プロフィール
徳川昭武

徳川昭武
出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸駒込・水戸藩中屋敷(現・豊島区駒込)
  • 生年月日:1853年10月26日
  • 死亡年月日:1910年7月3日(享年58歳)
  • 幕末期、将軍名代としてパリ万博に派遣される。随行した使節団により、日本は大幅な近代化を迎えた。

 

徳川昭武 年表

年表

西暦(年齢)

1853年(1歳)江戸駒込の水戸藩中屋敷にて生まれる。第9代水戸藩主・徳川斉昭なりあきの18男。

1864年(12歳)「禁門の変」「天狗党の乱」にて、一軍を率いて出陣。

1867年(15歳)徳川御三卿・清水家を相続。パリ万博開催に伴い、第15代将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣される。

1868年(16歳)戊辰戦争勃発。新政府の命令に従い帰国する。

1869年(17歳)第11代水戸藩主に就任。版籍奉還により水戸藩知事となる。北海道開拓に伴って、北海道北部5郡の統治を任される。

1871年(19歳)廃藩置県により免職。

1875年(23歳)陸軍少尉となる。伯爵・中院通豊なかのいんみちとよの娘・盛子と結婚。

1876年(24歳)フィラデルフィア万博の開催に伴い、アメリカへ派遣される。その後フランスへ留学。

1881年(29歳)ロンドンに半年間滞在ののち、帰国。

1884年(32歳)甥の徳川篤敬あつよしに家督を譲り隠居。千葉県松戸市の戸定邸とじょうていに移り住む。

1892年(40歳)次男・武定が子爵となったことを機に、松戸徳川家を創設。

1898年(46歳)甥の篤敬が死没。その息子・圀順くにゆきが水戸徳川家を継いだため、後見人を務める。

1910年(58歳)江戸・小梅邸(現・隅田公園)にて死没。

 

幼少期

1853年、徳川昭武は第9代水戸藩主・徳川斉昭なりあきの18男として、江戸の水戸藩中屋敷にて生まれました。

側室の子であるため、第15代将軍・徳川慶喜から見ると異母弟にあたります。

子息に水戸学を学ばせたい斉昭の方針で、昭武は生後まもなく水戸にて養育を受けることに。

(※水戸学:幕末、水戸藩を中心に広まった尊王攘夷論)

しかし幕末の機運もあってそうも言っていられず、1863年には江戸、京都と居を移し、幕臣として働きました。

・長州藩が京都を襲撃した「禁門の変」

・水戸藩攘夷じょうい派による「天狗党の乱」

では、12歳と若年ながら軍を率いて戦ったという話。

幼少から武芸に秀でた兄慶喜に負けじと勇猛だった様を感じさせます。

こう見るとふたりを育てた徳川斉昭は、親としてかなり優秀に見えますよね。

相当なスパルタ教育だったのかも…。

 

パリ万博への派遣

1867年になると兄慶喜の命により、将軍名代として昭武がパリ万博に参加することになります。

倒幕を企てる薩摩藩がイギリスを味方につけ、軍事力をグングン成長させていたこの時期。

幕府は対抗するためにフランスを味方につけようと考え、遣欧使節をたびたび送っていました。

パリ万博への参加は、そんな幕府にとって最後の使節派遣となります。

昭武はこの機に徳川御三卿のひとつ、清水家を相続し、将軍名代を名乗るにふさわしい地位を得ることに。

そして渋沢栄一もこの遣欧使節の一員となり、ヨーロッパを訪れることとなります。

このとき栄一が主に会計を任されているのは、農民と商人を兼ねた家柄からでしょうか。

パリ万博の成果

パリ万博が開催されたことによって、日本はヨーロッパ諸国の注目を一気に集めることになります。

・和紙

・絹製品

・漆器

などが、出展物では最高評価のグランプリを獲得するのです。

これがきっかけとなって、以降のヨーロッパでは日本趣味を意味する「ジャポニズム」が流行。

芸術作品の随所にその傾向が登場することとなります。

また、使節たちが万博での見聞を持ち帰り、以降日本の近代化を促していったことも大きな成果です。

生涯で500以上の企業設立に携わった渋沢栄一が良い例ですね。

ヨーロッパに親日感情を芽吹かせたこと、使節たちが新たな知見を得たこと、

それぞれをもって、パリ万博は日本の近代化に欠かせないものになったといえます。

昭武のパリ留学

徳川慶喜が昭武をヨーロッパへ向かわせた理由は、第一はフランスとの親交にありますが、第二は彼を現地で学ばせたいという気持ちからでした。

そのため、昭武は万博の参加を終え、ヨーロッパ各国の国王を歴訪したのち、パリにて留学生活を送ることとなります。

当初、慶喜は

慶喜
3~5年、もしくはそれ以上の期間学んでくること

と命じていました。

こののち国内の発展を担う人物として、昭武にかなりの期待を寄せていたことがわかりますね。

昭武のパリ留学は、留学といっても学校に入るようなものではなく、教育係として派遣された陸軍中佐レオポルド・ヴィレットに師事する形で行われました。

ただ、1868年に入ると、留学の続行が不可能になる大事件が勃発します。

大政奉還によって、幕府が政権を手放すこととなったのです。

日本政府の要人ではなくなってしまった昭武は、フランス政府から見てかなり微妙な位置付けに。

続いて明治政府から命令が届いたことで、帰国を余儀なくされます。

このころには教育係のヴィレットとの絆も深まっており、帰国の記念として10日間のフランス国内旅行に同行したという話です。

帰国後は、水戸藩主の兄・慶篤よしあつが没していたため、そのあとを継いで第11代水戸藩主となりました。

 

明治維新後

明治維新後の1869年、昭武は版籍奉還によって水戸藩知事へと官職を変えます。

戊辰戦争の際、前藩主・慶篤は勅命に従い、藩内の佐幕派を討伐。

その経緯で水戸徳川家は朝敵にならずに済み、昭武にも無事、新政府での職が回ってきたのです。

また、同年には北海道開拓も始まっており、政府は諸家に対し、北海道統治の委託を募りました。

ここで昭武が名乗りを挙げ、利尻や苫前とままえを始め、その周辺の北部5郡を任されることに。

1871年、廃藩置県までの短期間ではありますが、かなり精力的に新政府に貢献していたのです。

というか、当時17歳でこれはすごすぎ…慶喜公のお墨付きだけあります。

その後、知事を免職されると陸軍に入り、教官を務めました。

このころは主にフランス軍事顧問団が陸軍の指導にあたっていたため、フランス語を習得していた昭武が教官として重宝されたのでしょう。

軍人以外にも、明治初期に来日したお雇い外国人の面々とはしばしば交流があったといいますよ。

 

二度目のフランス留学

1876年のこと、昭武はフィラデルフィア万博の開催に伴い、アメリカへの出向を命じられます。

この万博に参加したのち、フランス留学を出願。

パリ到着後はレオポルド・ヴィレットと再会し、彼の手引きで名門エコール・モンジュへと入学しました。

1年半同校で学んだ昭武は、1880年に退学。

同時に甥の徳川篤敬あつよしがフランスへやってきたため、彼を引き連れてヨーロッパ各国を旅行します。

ちなみにドイツ滞在中には、兼ねてから親交のあったアレキサンダー・フォン・シーボルトがふたりの案内を引き受けたという話です。

アレキサンダーは、オランダ商館付医師として日本に西洋医学を伝えたフランツ・フォン・シーボルトの長男

1859年のシーボルト再来日の際、アレキサンダーは一緒に日本を訪れ、イギリス公使館にて働くこととなりました。

その後、帰国の機会をうかがっていたところにパリ万博の話が挙がり、昭武の使節に随行した経緯があります。

昭武はこのほかにも、前回の渡欧やお雇い外国人を通じ、ヨーロッパ各地でのコネクションを着実に広げていたのです。

このように充実した留学生活を送り、1881年に帰国。

無二の友となったヴィレットとは、以後30年に渡って文通が交わされました。

1902年に渋沢栄一がヨーロッパ旅行を行った際も、昭武が栄一とヴィレットを引き合わせたという話。

同じようにヨーロッパを訪れた日本の要人には、昭武の仲介で現地の友好関係を築いた人がたくさんいます。

 

戸定邸での隠居生活

1883年、長女・昭子出産の折、妻・盛子は産後の経過が悪く、亡くなってしまいます。

この悲劇に際し、昭武もさすがに疲れてしまったのでしょう。

翌年には甥の篤敬に家督を譲り、隠居することになります。

ちなみに篤敬は、第10代藩主・慶篤の息子。

兄の突然の死により家督を引き受けた昭武でしたが、ここでまた兄の家系に家督を返すのですね。

隠居に伴って移り住んだのは、現在は文化財となっている千葉県松戸市の戸定邸とじょうてい

2万3千坪の広大な敷地に、美しい庭園を有する豪邸です。

庭園はパリ万博で見たものを参考にしながらも、日本の伝統技術である借景しゃっけいを用い、江戸川や富士山を眺望のなかに反映。

和と洋をうまく融合させた装いとなっています。

昭武は園芸が趣味だったため、造園にはかなりこだわったようですよ。

戸定邸には大正天皇も皇太子時代に訪れたといい、高い歴史的価値があります。

隣接する戸定歴史館では昭武の遺品なども展示されているので、そちらも合わせて楽しめそうですね。

このほかにも昭武は、自転車や写真、狩猟などかなりの多趣味でした。

特に自転車、写真に関しては兄の慶喜も共通の趣味があり、ふたりは盛んに行き来しています。

若くして重役を任されたふたりにとっては、ここからが青春だったのかもしれません。

<戸定邸>

 

きょうのまとめ

将軍家も没落の機に差し掛かり、国内での活躍はあまり見られなかった徳川昭武。

それゆえ語られることも少ない人物ですが、ヨーロッパ留学を通じて彼が日本にもたらした影響は計り知れません。

渋沢栄一の功績だって、昭武なしには成し得なかったもの。

栄一はまさにその活躍をもって、昭武の偉大さを代弁しているわけですね。

最後に今回のまとめです。

① 徳川昭武は、パリ万博の開催に伴い、将軍名代として幕府から派遣された。パリ万博で日本の出展物は多大に評価されることに。また使節たちが知見を持ち帰ったことで、日本近代化の大きな足掛かりとなった。

② 留学生活や、日本のお雇い外国人を通して現地での交友関係を深めた昭武は、日本の要人がヨーロッパへ訪れる際の仲介役としても活躍した。

③ 晩年を過ごした戸定邸は、その美しさや歴史的価値から文化財になっている。共通の趣味をもったことから、徳川慶喜も盛んに出入りした。

もしも幕府があのまま続いていたら、昭武はその中心人物として幕政を率いていたに違いありません。

慶喜とタッグを組んで、うまく国を育てていけたかも…なんて、妄想が捗りますね。

 
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