『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』。
これらは誰もが一度は聞いたことがあるタイトル、そして曲ではないでしょうか。
ちなみにこれは、チャイコフスキーの三大バレエ音楽として世界中で有名なものです。
19世紀後半にロシアで誕生した作品でした。
では、作曲者であるチャイコフスキーとは一体、どのような人物だったのでしょうか。
今回は彼の主な功績やエピソードと共に、その生涯について見ていきましょう。
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チャイコフスキーはどんな人?
- 出身地:ロシア ウラル地方ヴォトキンスク
- 生年月日:1840年5月7日
- 死亡年月日:1893年11月6日(享年53歳)
- 19世紀後半ロシアの作曲家。
チャイコフスキー 年表
西暦(年齢)
1840年(0歳)ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師の父のもと次男として誕生。
1859年(19歳)法律学校を卒業後、法務省の職員としてペテルブルクで勤務する。
1861年(21歳)アントン・ルービンシュタイン設立の音楽協会(後のペテルブルク音楽院)に入会。
1863年(23歳)法務省を退職後、協会モスクワ支部の音楽教師に就任。
1866年(26歳)新設されたモスクワ音楽院で音楽理論教師に就任。作曲活動の本格的開始。
1875年(35歳)ピアノ協奏曲第1番を作曲。ボリショイ劇場から『白鳥の湖』の作曲を依頼される。
1876年(36歳)交響曲第4番を作曲。
1877年(37歳)バレエ『白鳥の湖』完成。オペラ『エフゲニー・オネーギン』を作曲。
1878年(38歳)教職を辞任。ヨーロッパ各地を転々と移住する。
1885年(45歳)ロシアに帰国後、晩年まで田舎中心に転居生活を送る。
1888年(48歳)バレエ『眠れる森の美女』を作曲。交響曲第5番を作曲。
1891年(51歳)バレエ『くるみ割り人形』を作曲。アメリカに旅行。
1893年(53歳)交響曲第6番『悲愴』を作曲。初演から間もなく急死。
チャイコフスキーの生涯
ここからは早速、チャイコフスキーの功績を中心にその生涯を辿っていきましょう。
ロシア音楽を華やかに
チャイコフスキーの功績としてまず押さえておきたいのが、彼がロシアの音楽業界を盛り上げた功労者の一人であるということです。
実は彼の生きた19世紀のロシアは、イタリアやオーストリアなどのヨーロッパ周辺諸国と比べ、音楽の分野は発展途上にありました。
そんな時代において、冒頭でもご紹介したチャイコフスキーの三大バレエの成功は、ロシアの音楽的な地位を向上させるのに重要な役割を果たしたのです。
今でこそ、
「バレエと言えばロシア」
「ロシアバレエの功労者と言えばチャイコフスキー」
と言った連想がされることも多いですが、彼がバレエ音楽に興味を持ちその作曲に従事するまで、ロシアでのバレエ人気はほとんど無いようなものだったのです。
1875年にモスクワのボリショイ劇場から依頼されたことで誕生した1作目の『白鳥の湖』が、ロシアだけでなく、世界中で今日まで続くバレエ人気を支える原点とも考えられます。
またチャイコフスキーは他にも、
・ヴァイオリンなどの室内楽
といったジャンルの曲も、バレエ曲ほど知名度があるとは言えませんが遺しています。
その中でも、ピアノ協奏曲第1番などは現在でも耳にすることが多い作品ではないでしょうか。
<ピアノ協奏曲第1番>
遅咲きの作曲家
今でこそロシアを代表する著名な作曲家の一人となったチャイコフスキー。
しかし、彼が作曲家を志し始めたのは成人後だったことを、ご存知でしょうか。
実は元々、鉱山技師の父親のもとに生まれたチャイコフスキー。
家は決して裕福ではなく、子供の頃のチャイコフスキーが音楽に触れられたのは、趣味でピアノを弾くことくらいでした。
学生時代は法律の学校に通い、平凡な成績で卒業後は法務省に就職し勤務しています。
そんな彼に転機が訪れたのは21歳の頃。
ロシアの音楽を発展させる目的でアントン・ルービンシュタインが設立した音楽協会に、1期生として入会することを決めたのです。
音楽への愛着を持ち続けていたチャイコフスキーは、このロシア初の専門的音楽教育機関で、瞬く間にその才能を開花させていくことになりました。
その後、23歳で官僚を辞職した彼は音楽協会のモスクワ支部で音楽講師に就任。
さらにその3年後には新たに創られた音楽院にて、音楽理論の教師として約12年もの間教員生活を送っています。
それと並行して、その頃から本格的に作曲家としての活動も始めていたチャイコフスキー。
しかし実は初期の頃の作品について、その評判はあまり良くありませんでした。
それでも、前述したピアノ協奏曲第1番などはアメリカでの初演が無事成功し、その人気が日本にも流れてきたと言えます。
チャイコフスキーは、晩年にかけて有名な作品を生み出していくことになった、遅咲きの作曲家なのです。
チャイコフスキーにまつわるエピソードや伝説
ここでは、チャイコフスキーの人柄に迫るために、彼にまつわる逸話をご紹介します。
とにかく繊細
チャイコフスキーの性格についてよく挙がるものとして、
・臆病
・内気
といった特徴があります。
彼の内向的な性格はかなり強いもので、
・音楽院卒業後初の作品を恩師に批判され、ショックで精神を病む
・同時代に活躍した「ロシア5人組」と呼ばれた作曲家たちとも距離を置いていた
等々、外界から与えられるストレスに対してとことん弱く、度々うつ病の様な症状も発症していました。
ちなみに彼の晩年最後の作品となったのは、交響曲第6番の『悲愴』。
比較的短期間で仕上げたこの作品は、そこから2か月後に初演を迎え、その9日後になんとチャイコフスキーは急死してしまいます。
死因はコレラに感染したこととされていますが、未だに自殺の説も残っているほど謎に包まれているのです。
絶筆となった『悲愴』が独自の新たな境地を切り開いた大作として評価される一方、不安定な彼の精神状態を考えると、この説が浮上するのもおかしくはありません。
<交響曲第6番の『悲愴』>
2人の女性
チャイコフスキーに関わりのあった人物のなかに、2人の重要な人物がいます。
それが、アントニーナ・ミリューコヴァとフォン・メック夫人という女性たちです。
それぞれについて、チャイコフスキーとの関係を以下で見てみましょう。
・37歳の時に結婚を強く迫ってきた17歳下の妻
・毒妻としてチャイコフスキーの精神を蝕んだ
・この頃から繰り返すことになる転居は、彼女から逃れるため
・4年後に離婚が成立するも、人間関係にさらなる嫌気がさすきっかけとなった
・二人の交流は14年間文通のみ
・感謝を示すために、交響曲第4番を捧げた相手
・晩年に精神を病んだ彼女により資金援助を打ち切られ、後ろ盾を失うことになる
この様に、それぞれチャイコフスキーの生涯において強い影響を与えた人物たちでした。
きょうのまとめ
今回はロシアを代表する作曲家、チャイコフスキーについて、その生涯を主な功績やエピソードと共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、チャイコフスキーとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀ロシアの作曲家。
② 三大バレエ音楽などを遺し、ロシアの音楽的地位の向上に貢献した。
③ 繊細な人柄で遅咲きの作曲家だった。
繊細で内気な性格だったチャイコフスキー。
そんな彼は、実生活において苦労する場面も多かった人物でした。
しかしその細やかな感受性が紡ぎ出す作品からは、しばしば柔らかく優しい旋律が聴こえてくるのも確かです。
彼の作品を鑑賞する際は、そういった部分に注目してみるのも面白いですね。
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