高木兼寛とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

明治時代、海軍にて軍医として最高位の軍医総監まで上り詰めた医師・

高木兼寛たかきかねひろ

海軍内で大流行した脚気の原因を栄養不足と見抜き、兵食改革にて患者数を激減させた功績をもつ医師です。

当時の日本医学界では想像もいたらなかったその見解の鋭さに、後世では「日本の疫学の父」とも称えられます。

同時に、東京慈恵会医科大学の創設者でもある高木は、間違いなく現代医学の基礎を作った人物といっていいでしょう。

いかにして天才医師・高木兼寛は作られていったのか?

また彼の疫学研究は医学界からバッシングを受けた経緯もあるといいますが、それはいったいなぜ?

高木兼寛はどんな人だったのか、今回はその生涯から探っていきましょう。

 

高木兼寛はどんな人?

プロフィール
高木兼寛

高木兼寛肖像画–高木兼寛生誕の地穆園広場内の案内板より
出典:Wikipedia

  • 出身地:日向国諸県郡穆佐村白土坂ひゅうがのくにもろかたぐんむかさむらしらすざか(現・宮崎県宮崎市高岡町)
  • 生年月日:1849年10月30日
  • 死亡年月日:1920年4月13日(享年 70歳)
  • 明治時代の海軍にて、軍医として最高位の軍医総監まで上り詰めた医師。東京慈恵会医科大学・同大学附属病院などの創始者でもある。

 

高木兼寛 年表

年表

西暦(年齢)

1849年(1歳)薩摩藩士・高木喜助兼次の長男として日向国諸県郡穆佐村白土坂ひゅうがのくにもろかたぐんむかさむらしらすざか(現・宮崎県宮崎市高岡町)にて生まれる。

1866年(17歳)薩摩藩の蘭方医・石神良策に師事。

1868年(19歳)戊辰戦争時に軍医として従軍。

1869(20歳)江戸幕府の教育機関・開成所に入学。英語と西洋医学を学ぶ。

1870年(21歳)薩摩藩の教育機関・鹿児島医学校に入学。校長のウィリアム・ウィリスに引き立てられ、教授となる。

1872年(23歳)師・石神良策の引き立てで一等軍医副として海軍に入隊する。同年、大軍医に昇進。

1875年(26歳)海軍病院学舎のアンダーソン教官に推薦され、イギリスの聖トーマス病院医学校へ留学する。

1880年(31歳)イギリス外科医・内科医・産科医・イギリスでの外科学教授の資格を取得。最優秀学生の表彰を受け、首席で聖トーマス病院医学校を卒業し帰国する。

1881年(32歳)イギリスの医学を広めるため、医学団体・成医会と共に成医会講習所を設立。翌年には貧困層のための医療施設・有志共立東京病院を設立する。

1883年(34歳)海軍医務局副長・学舎長を務めたのち、海軍医務局長に就任。脚気の流行が問題となるなか、兵食改革を行いその患者数を激減させた。

1885年(36歳)海軍軍医総監に就任し、軍医としては最高位の階級になる。

1887年(38歳)改修した東京府立病院に、昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り東京慈恵医院と改名。院長に就任する。

1888年(39歳)医学博士号を授与され、日本初の博士号取得者のひとりに数えられる。

1892年(43歳)予備役となり、海軍の実務を離れる。以降東京慈恵医院・東京病院などで医師を務めたほか、衆議院議員など要職を務める。

1920年(70歳)4月13日、散歩中に脳出血を起こし死没する。

 

高木兼寛の生涯

1849年、高木兼寛は日向国諸県郡穆佐村白土坂ひゅうがのくにもろかたぐんむかさむらしらすざか(現・宮崎県宮崎市高岡町)にて、薩摩藩士の父・高木喜助兼次の長男として誕生しました。

幼少は家業の大工仕事を手伝うかたわら、武士の息子として剣術や学問にも励みます。

武士の家系なのに大工仕事…?

と、疑問に思うところですが、武士といっても幕府の役人を務めるだけで生活していけたのは旗本クラスからで、一般の武士は兼業が普通だったのです。

高木の父はその兼業として大工をしていたのですね。

しかしその息子である高木が憧れたのは武士でも大工でもなく、地元の医師・黒木了輔でした。

武士は国を守る立派な務めをしていますが、高木の目には、目の前で困っている患者さんを助ける医師の姿がより輝いて見えたのかもしれません。

医師への道

医師を志すことを決めた高木は17歳のころ、鹿児島に下宿し、薩摩藩の医師・石神良策のもとで医学を学ぶようになります。

それから2年後、1868~69年に勃発した戊辰戦争には軍医としても従軍。

戦時中は負傷兵が相次ぐなか、薩摩藩には手術の心得がある医師がおらず、西郷隆盛の要請を受けて、イギリス領事館の医師ウィリアム・ウィリスが対応に駆け付けました。

このときウィリスの施術を目の当たりにしたことが、高木にとっては大きな刺激になったといいます。

そして戊辰戦争終結後、高木は新たに入学した鹿児島医学校でウィリスと再会し、彼の推薦で教授を務めるようになりました。

一方、1872年には、かつての師・石神良策が海軍軍医寮の幹部になっていたことから高木を引き立て、海軍に入隊。

ここから海軍病院に務めるかたわら、軍医制度の建議にも積極的に参加する姿勢を見せ、その地位は大軍医、軍医小監と次々に高まっていきます。

そんな折、1875年には海軍病院学舎のイギリス人教官・アンダーソンに見初められ、彼の母校であるイギリスの聖トーマス病院学校への留学が決定します。

このように高木は周囲から能力を大きく評価され、さまざまな人物に引き立てられることで医師としての地位を確立していきました。

高木を評価した周囲の目はたしかで、彼は聖トーマス病院学校を首席で卒業。

英国医師としてのさまざまな資格を取得して日本へ帰国します。

日本の医学界への問題定義・改革

高木はイギリス留学を通して、イギリスで中心となっていた臨床医学を身につけて帰国します。

1881年には医学団体・成医会の協力のもと、臨床医学の教育を行う成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)を設立。

82年には貧困層に向けた医療施設・有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)を、続く85年には同病院の看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)と、次々に病院や学校を創設していきます。

高木が病院や教育機関の経営に力を入れたのは、彼がイギリス留学を通して当時の日本の医学界に疑問をもつようになっていたからです。

このころの日本の医学はドイツに多大な影響を受けており、研究・学説がなにより優先されていました。

病気を治すことより学問としての側面に光が充てられ、とにかく技術の進歩が重要視されていたのです。

一方で高木がイギリスで学んだのは患者を救うことが先決という臨床医学。

また留学中にはナイチンゲール看護学校にも訪問しており、日本にはまだ浸透していなかった看護の重要性も認識しました。

技術を進歩させることばかりを優先させるようになっていた日本の医学界に対し、目の前の患者を救うという医師として当然の心得を取り戻させるべく、高木は改革を行っていったのですね。

軍医としての高木

教育機関や病院の設立と時期を同じくして、高木は海軍でも軍医医務局長を務め、主として海軍内で問題になっていた脚気の流行への対策を行っていきます。

高木はイギリスでは脚気の患者が皆無だったことから、原因が日本人の食事にあると推測しました。

パンや肉がメインになっている洋食に対し、白米が中心の日本食ではタンパク質が不足してしまう。

この観点から兵食改革が行われ、1883年時点では海軍内で1,236人(死亡49人)いた患者を、なんと85年には41人(死亡0人)にまで減らすことに成功しました。

84年には練習艦「筑波」にて脚気の予防試験も行われており、乗組員333人のうち、287日間の航海を通して脚気にかかった患者は16人という結果をもって、高木はこの兵食改革の根拠も示しています。

この16人という数字にしても、83年時点で海軍内の患者が1,000人以上いたことを踏まえれば効果は明らかです。

東京大学・陸軍からのバッシング

なにより結果を出していることから、もはや疑いようもなく思える高木の脚気に対する見解。

しかし前述の通り、当時の日本の医学界は学説・研究重視です。

こういった風潮から、高木の説は東京大学医学部や陸軍を中心に大バッシングを受けてしまうことになります。

東京大学の衛生学教授・緒方正規は脚気を感染症だといい、生理学教授・大沢謙二は消化吸収試験をもって高木の説が机上の空論であることを立証。

陸軍軍医の森鴎外もりおうがいさえも、高木の兵食改革に異を唱える論文を発表する始末です。

そういえば森鴎外もドイツに留学して医学を学んだ経緯がある人でした。

同じ著名な軍医でも、高木とは考えが相容れなかったのですね。

彼らが唱える理由はすべて、学説的に正しくないとするもの。

「白米の栄養不足が原因なら脚気だけじゃなく、ほかの病気にだってかかっているはずだ」

などという言い分です。

結局、脚気の原因がビタミン不足だということが発覚するのは、ビタミンの存在が明らかになった1910年以降のこと。

ビタミンという概念がなかった高木の時代には、この証明ができなかったわけです。

ちなみに白米に代わって支給されるようになったパンは、士官たちには不評だったらしく、後年はそれに代わる麦飯に変更。

1905年に高木は男爵の爵位を授かっており、その際は世間から「麦飯男爵」と揶揄されていたといいます。

患者数の現象を見ても高木の説が正しいことは明らかなのに、古くから根付いた思い込みをくつがえすのがいかに難しいことかを思い知らされますね…。

バッシングされてもその功績はたしか

高木は軍医として最高位の軍医総監まで上り詰めていますし、1888年には日本初の医学博士号を取得。

医師としてこれ以上ないぐらいの地位を得ています。

バッシングは多かったものの結果が出ている以上、やはり評価しないわけにはいかない人物でした。

それに結果的には、当時の医学界では彼が一番、先見の明をもっていたわけですし…。

その後、1892年に予備役となり軍医としての任を終えたあとも、東京慈恵医院や東京病院にて、高木は医師として奔走し続けます。

そして1920年4月13日のこと、自宅の庭を散歩中に脳出血を起こし、70歳でその生涯を終えることになるのです。

 

きょうのまとめ

高木兼寛は少年期に憧れた地元の医師と同じように、とにかく目の前の患者を救う臨床医学の考え方を、イギリスから日本へ持ち帰りました。

海軍内で脚気患者を激減させたことにしても、イギリスで学んだ下地があってこそです。

こう見てみると、高木がイギリスへの留学を決めたことはいかにも運命的なことだったように感じますね。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① イギリス留学で臨床医学・看護の重要性を学んだ高木兼寛は、その考えを日本に広めるべく、教育機関や病院を次々に創設していった。

② 軍医として兵食改革を行い、1,000人以上いた脚気患者を2年で41人まで減少させた。

③ 研究・学説優先の当時の日本の医学界からは、高木の唱えた「脚気の原因=栄養不足」という説は受け入れられなかった。

当時はなにかとバッシングも受けた高木ですが、後世にてビタミンが発見されたことでその功績は見直されています。

世界的に脚気の原因が究明されるずっと前からその傾向に気付いていた高木は、やはり天才というほかありませんね。

 

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