森鴎外とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

森鴎外もりおうがいってどんな人?」

と尋ねられたら、多くの人は「国語の教科書で見たことがあるような…」「舞姫とか、がんなら知ってるけど…」ぐらいの認識かもしれません。

しかしその人物像を詳しく辿ってみると、作家としてだけでなく、医師としてもトップに昇り詰めたとんでもない経歴の持ち主だということがわかります。

明治・大正の時代を通して、彼ほど学問に精通し、濃密な人生を送った人物は数少ないでしょう。

今回はそんな森鴎外の生涯に迫っていきます。

 

森鴎外はどんな人?

プロフィール

森鴎外
出典:Wikipedia

  • 出身地:石見国津和野町田村いわみくにつわのちょうたむら(現在の島根県津和野町町田)
  • 生年月日:1862年2月17日
  • 死亡年月日:1922年7月9日(享年60歳)
  • 陸軍軍総監として軍医のトップを務めるかたわら、作家として『舞姫』『雁』『山椒大夫さんしょうだゆう』などの名作を残し、二分野を極めた才人。

 

森鴎外 年表

年表

西暦(年齢)

1862年(1歳) 石見国津和野町田村にて、典医(宮内省に属する医師)の家系に生まれる。

1872年(10歳) 父と共に上京し、官立医学校へ入学するためにドイツ語を学び始める。このとき政府高官の親族で哲学者の西周にしあまりの邸宅に下宿していた。

1874年(12歳) 第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)予科に入学。このとき入学に必要な年齢が足りなかったため、14歳と偽って試験を受けている。

1877年(15歳) 本科へと進む。ドイツ教官からの講義を受けるかたわら、佐藤元長に師事し、漢方医学、さらに漢詩や漢文といった文学にも傾倒していく。

1881年(19歳) 大学を卒業。しばらくは父の病院を手伝っていたが、同期生の小池正直・賀古鶴所かこつるとの推薦もあり、陸軍軍医副となり、東京陸軍病院へ勤務する。

1882年(20歳) 軍医本部に配属され、プロイセン王国の陸軍衛生制度の調査に従事。同時に私立東亜医学校にて衛生学の講義を受け持った。

1884年(22歳) 陸軍衛生制度のさらなる調査や、衛生学の習得のため、ドイツへの留学を命じられる。

1884~87年(22~25歳) ラプツィヒ大学、ドレスデンの軍医学講習会、ミュンヘン大学、細菌学者ロベルト・コッホの衛生試験所などを渡り歩き、勉学に励む。カールスルーエで行われた第4回赤十字国際会議では、通訳者を務め称賛された。

1888年(26歳) プロイセン近衛歩兵第二連隊の軍医を務める。9月には帰国し、陸軍軍医学舎と陸軍大学校の教官を兼任する。

1889年(27歳) 『読売新聞』の付録として『小説論』を発表したことをきっかけに文学活動を開始。

1890~91年(28~29歳) 『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』など、ドイツを舞台にした小説を相次いで発表し、注目を浴びる。

1894~1895年(32~33歳) 日清戦争が勃発し、軍医部長として駆り出される。終戦後は台湾にて勤務した後に帰国。

1896年(34歳) 陸軍大学校教官に再度就任。小池正道との共著『衛生新編』を発表。文芸雑誌『めざまし草』を創刊。父静男が死没。

1899年(36歳) 陸軍軍医監に昇進。北九州に徴兵区をもつ第十二師団の軍医部長となり、小倉へと移る。

1902年(40歳) 荒木志げと結婚。第一師団の軍医部長の辞令を受け、東京に赴任。『めざまし草』を廃刊した後、上田敏らと『芸文』、後に『万年艸まんねんぐさ』を創刊。

1904~1906年(42~44歳) 日露戦争に軍医部長として出征。

1907年(45歳) 陸軍軍医総監に昇進、陸軍省医務局長となる。

1909年(47歳) 文芸雑誌『スバル』にて『半日』『ウィタ・セクスアリス』『にわとり』『青年』など、多岐に渡る作品を連載。東京帝国大学から文学博士の学位を授与される。

1911~18年(49~56歳) 『雁』『鼠坂ねずみざか』『阿部一族』『山椒大夫さんしょうだゆう』『高瀬舟』など、数多くの小説を執筆。かたわらゲーテなどの外国文学の翻訳も行った。

1919~21年(57~59歳) 初代帝国美術院長を務める。元号の考案に着手し始め『帝謚考ていしこう』を刊行、また『元号考』を刊行しようとするが病状が悪化し、吉田増蔵よしだますぞうに後を託す。

1922年(60歳) 腎委縮及び、肺結核により死没。

 

医師と作家…二足のわらじを履く森鴎外の生涯とは

典医の跡取りとして英才教育を受けた幼少期

1862年、石見国津和野町田村いわみくにつわのちょうたむら(現在の島根県)にて、森鴎外(本名は森林太郎)は典医という宮内省に属する…要するに国公認の医師の家系に生まれました。

彼の祖父と父はそれぞれ婿養子として森家にやってきたため、鴎外は久しぶりの直系の跡取りということになり、幼少より大いに期待を寄せられます。

そしてオランダ語や儒教をこのころから教え込まれ、9歳にして15歳の学生に匹敵するほどの学力をようしていました。

10歳になってからは医学校への入学のために上京し、ドイツ人講師による授業に備え、私塾にてドイツ語を学び始めます。

1873年には無事、第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)に入学を決めるのですが、このとき年齢が足りなかったため、12歳のところを14歳と偽って試験を受けたとのこと。

今で言う小学校卒業の歳から医学を学び始めるなど、凡人には想像も至らないレベルですね…。

ドイツ留学を経て陸軍大学校教官・作家としても活動を開始

1881年、19歳で医学校を卒業した鴎外は、実はすぐに軍医になったわけではありません。

意外なことに彼の卒業時の成績は同期8名中8番目で、就職には繋がらなかったのです。

しかしそんな鴎外を見かねた同期生の小池正道や、賀古鶴所かこつるとなどの推薦により、晴れて軍医として東京陸軍病院へと勤務することに。

このときの小池氏は後の陸軍省医務局長に、賀古氏は日本の耳鼻咽喉科の創始者と呼ばれるようになっており、卒業生が精鋭揃いだったこともわかります。

こうして同期に支えられる形で軍医となった鴎外ですが、1883年にはプロイセン王国の陸軍衛生制度の調査において成果を出し、さらなる調査のためにドイツ留学を命じられる大躍進を見せます。

そこから4年間、ラプツィヒ大学、ミュンヘン大学、細菌学者ロベルト・コッホの衛生試験所など、さまざまな機関にて勉学に励みました。

そして1888年に帰国すると、陸軍軍医学舎及び、陸軍大学校の教官に就任。

このころにベルリンで出会ったドイツ人女性が後追いで日本へやってくるなどの出来事があり、これが代表作でもある『舞姫』の題材にもなりました。

この他にも『うたかたの記』『文づかひ』など、ドイツを舞台にした小説を執筆し、作家としての鴎外の注目度が高まっていきます。

こう見ると軍医としても作家としても、彼のキャリアにはドイツでの生活が不可欠だったことがわかりますね。

日清・日露戦争を経験…軍医としても作家としても昇り詰めていく

1894年の日清戦争には軍医部長として出征し、終戦後も半年ほどは、日本の領土となった台湾にて勤務しました。

また1904年からの日露戦争にも出征しており、鴎外は軍医として二度の戦争を経験しているのです。

後に戦場での体験を記した『鼠坂ねずみざか』なども発表されており、ドイツ留学に次いで、こうした戦争体験も鴎外の作品に影響を与えたことが垣間見えます。

1907年からは軍医総監という、軍医のトップの地位に就いた鴎外は、それだけには留まらず、作家としてもより精力的な活動を展開。

『半日』『ウィタ・セクスアリス』『青年』…挙げ出せばキリがないぐらい、このころに発表された作品は多岐に渡りました。

彼の作品が高く評価されるのは、その人生を通して、普通は経験できないことを多数経験していることも関係があるのでしょう。

晩年になるに従って作品の発表の勢いが増していく様子は、人生で蓄積されたものを一気に放出しているかのように映ります。

 

きょうのまとめ

幼少から英才教育を受け、普通の子供とは違った道を歩んで来た森鴎外の人生には、大人になってからも波乱に満ちた展開が多数待ち構えていました。

自身の経験を伴っている人の話はやはり聞き応えがあるもの。

そう考えると鴎外が医師だけでなく、作家として成功したことにも納得させられますね。

最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。

① 森鴎外は幼少から医師としての英才教育を受けた天才児だった

② 4年間のドイツ留学が、医師・作家としての転機をもたらした

③ 二度の戦争を経験。作品の面白さは人生経験の豊富さから

鴎外の作品は若い人には多少読みづらい側面もあるかもしれません。

しかし当時の言葉遣いで海外の風景が表現されている部分は、今読んでも斬新で惹かれるものがありますよ。

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