名門家系出身で「美少年」の人、それは平敦盛

 

『平家物語』において、若くして命を失った貴公子として知られる

平敦盛たいらのあつもり

彼の最期が悲劇として現代に伝わったのは、敦盛が平家において中心的な家系の出身であり、

美少年だったことが挙げられます。

 

平敦盛の家系について

平敦盛

平敦盛
出典:Wikipedia

1184年、熊谷直実くまがいなおざねが平敦盛を討取るとき、彼は見つけた平家の武将が誰だかわからないまま戦いを挑みました。

敦盛の武者姿が大将であるように立派なものだったことから、彼を倒せば手柄になると考えたのです。

敦盛が大物武将に見えたのも当然です。

彼は平家の公達として恥ずかしくない鎧兜を身につけた、華麗なるバックグラウンドを持つ人物だったのです。

偉大なる伯父を持つ少年

平敦盛の父親は平安末期の武将・平経盛たいらのつねもりです。

母親については明確なことが分かっていません。

父・経盛は実は平清盛の弟です。

つまり、敦盛は清盛の甥にあたるのです。

彼は、『平家物語』にも登場する平重盛、宗盛などの清盛の息子たちの従兄弟にあたる人物でした。

清盛や経盛たちは桓武天皇を祖とする桓武平氏であり、伊勢平氏と呼ばれるメンバーです。

天皇を祖先に持つ誇り高い平家の公卿として恵まれた生活を送っていた少年、それが敦盛だったのでした。

官位としては、従五位下に叙せられていたのですが、討ち死にしてしまったときはまだ16歳の若さでしたから、官職についておらず、無官大夫と呼ばれていました。

敦盛の親兄弟や子供など

若くして亡くなった敦盛には子供はありませんでした。

従って、彼の血を直接受け継いだ子孫はいません。

敦盛の父・平経盛には敦盛を含めて7人ほどの息子がいたと言われますが、そのほとんどが一ノ谷の戦いで亡くなっています。

経盛自身も、1185年3月に壇ノ浦の戦いに平家が敗れた際、弟の教盛とともに入水し、息子たちの後を追うようにして亡くなっています。

享年62。

 

美少年の証明

そんな華麗な一門出身の敦盛は、本当に美少年だったのでしょうか。

容顔まことに美麗なり

平家花揃へいけはなぞろえ』という室町後期の本では、敦盛はその美しさが「冬梅」に例えられるほどであったようです。

ただし、『平家花揃』は、『平家物語』の副読本とも言えるような書物ではありますが、なんせ室町後期に成立したものですから、その内容が全て正しいとはいえません。

実際、この本に登場する平家の公達たちはほとんどみな花に例えられているのです。

しかし、鎌倉時代に成立したと言われる『平家物語』には、彼の美貌が明言されています。

『容顔まことに美麗なりければ』

この言葉こそ、敦盛が美少年とされる根拠です。

源氏の武将・熊谷直実が武者を取り押さえ、首を搔き切ろうとして相手の兜を押し上げたとき、その武者姿の敦盛はまだ16歳ほどの若者でした。

彼の顔にはうっすらと化粧とお歯黒がほどこされていたといいます。

年齢的には直実の息子と同年代と思われる少年を目の前にして、直実はその彼のどこに刃を突き立てればよいのか困り、躊躇してしまったのでした。

滅び行く平家のはかなさが美しく描かれた

彼が美少年であったと伝えられるのにはもう一つ理由がありそうです。

それは、潔く討たれた悲劇の人だったということです。

立場が逆で敦盛が源氏の武者を討取った手柄の話しであれば、その後の活躍によっては、美少年というキャラクターとは違った設定となっていた可能性もあります。

敦盛は最期に命乞いなどしませんでした。

悲劇によって命を失ったからこそ、美少年は永遠の美少年として伝わることになったのです。

儚いからこそ美しい。

それが日本人が好む感覚です。

残酷なまでの平敦盛の最期は、滅びゆく平家との二重奏の中で多くの人の心を奪いました。

 

事実だと思いたい。でも作られた部分も大きい平敦盛美男子説

平敦盛がこれほど有名になったのは、『平家物語』に採り上げられたからだけではありません。

後世の人々が彼をモチーフにした物語を沢山この世に送り出したため、キャラクターが一人歩きしたのがその大きな理由です。

敦盛の最期と彼を討った直実が人生の無常を感じて出家してしまったことと共に『平家物語』に収められました。

そして、敦盛は幸若舞の『敦盛』、謡曲『敦盛』、浄瑠璃の『一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき』などとなって何度となく人々の前に登場し、その名を知られていったのです。

そして私たちはさらに想像力をかき立て、実在した美しい敦盛の姿について思いを馳せます。

 

きょうのまとめ

今回は、平敦盛の家系について、また敦盛が美少年と呼ばれる根拠について見てきました。

簡単にまとめると

① 平敦盛は平清盛を伯父に持つ平家の名門の血筋の者だった

② 敦盛が美少年であることは『平家物語』に明言されている

③ 敦盛の美少年イメージは、彼の悲劇の最期とそれを描いた後世の舞台によるキャラクター付けの助けがあった

これからもきっと沢山の平敦盛ファンが生まれてくることでしょうね。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku