鈴木貫太郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎すずきかんたろう

徹底抗戦を叫ぶ軍部をかわし、終戦を実現させた首相です。

陸軍将校によるクーデター未遂「二・二六事件」では、心停止するほどの重傷を負いながら生き残った逸話もあります。

なにより、昭和天皇が一番信頼を置いた側近であった鈴木。

いったいどんな人物だったのでしょう?

その生き様を辿ると同時に、戦争を終わらせるのが、どれほど難しいことだったのかも伝わるはずです。

 

鈴木貫太郎はどんな人?

プロフィール
鈴木貫太郎

大日本帝国海軍の正装に勲一等旭日大綬章・功三級金鵄勲章を着用した鈴木
出典:Wikipedia

  • 出身地:和泉国大鳥郡伏尾新田ふしおしんでん(現・大阪府堺市中区)
  • 生年月日:1868年1月18日
  • 死亡年月日:1948年4月17日(享年81歳)
  • 第42代内閣総理大臣。太平洋戦争において徹底抗戦を訴える軍部と一触即発の時勢におき、日本を終戦に導いた。

 

鈴木貫太郎 年表

年表

西暦(年齢)

1868年(1歳) 和泉国大鳥郡伏尾新田ふしおしんでん(現・大阪府堺市中区)にて、関宿藩せきやどはん家老・鈴木由哲ゆうてつの長男として生まれる。

1884年(16歳)攻玉社こうぎょくしゃ(現・攻玉社高校)を卒業し、海軍兵学校へ入学。

1887年(19歳)海軍兵学校を卒業。

1895年(27歳)日清戦争へ従軍。

1897年(29歳)海軍大学校に入学。翌年、卒業する。

1904年(36歳)日露戦争に参戦。

1910年(42歳)海軍大学校教官となり、水雷術の発展に貢献。金鵄勲章きんしくんしょうを受ける。

1914年(46歳)海軍次官となる。

1923年(55歳)海軍大将に昇進。

1924年(56歳)連合艦隊司令長官となる。

1925年(57歳)海軍軍令部部長に就任。

1929年(61歳)予備役となり、昭和天皇の侍従長じじゅうちょうに就任する。

1936年(68歳)「二・二六事件」で陸軍将校の襲撃に逢う。生死をさまよう傷を負ったが、奇跡的に蘇生した。

1944年(76歳)枢密院すうみついん議長となる。

1945年(77歳)前首相・小磯国昭の辞任を受け、内閣総理大臣となる。ポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争を終わらせた。

1946年(78歳)GHQ総司令部により公職追放となる。

1948年(81歳)肝臓がんを患い、死没する。

 

青少年期

1868年、鈴木貫太郎は和泉国大鳥郡伏尾新田ふしおしんでん(現・大阪府堺市中区)にて、関宿藩せきやどはん家老鈴木由哲ゆうてつの長男として生まれます。

関宿藩は現在の千葉県にあたりますが、大阪にもその行政区分があったのです。

父由哲は明治維新とともに下級官吏に。

鈴木も父の異動に伴い、幼少から東京・千葉・群馬の学校を転々とする生活を送ります。

そんななか、鈴木が志したのは海軍軍人でした。

「海軍に入れば、外国へ行くことができる」

異国での見聞を深めたいという、純粋なその願望から猛勉強を重ね、海軍兵学校入りを果たすのです。

父由哲は、幕末に幕府側についた関宿藩の家柄から、そこまでの昇進は見込めないと、息子のこの判断に反対したという話。

それを押し切ってでも海軍入りを目指すほど、鈴木の熱意は深いものだったのです。

 

海軍での活躍

晴れて海軍入りを果たした鈴木は、日清・日露戦争に従軍。

その間、エリートの証である海軍大学校もしっかり卒業しています。

特に目覚ましい活躍を見せたのが、1905年の日露戦争・日本海海戦において。

第四駆逐隊司令となった鈴木は隊を指揮し、敵艦隊に次々と魚雷を的中させ、日本の勝利に貢献しました。

なんでも、隊員からは「鬼の貫太郎」という異名で呼ばれるほど、厳しい隊長だったとか。

海軍入りの経緯などと合わせ、熱血漢な人柄が伺えますね。

以降はその手腕を買われ、海軍大学校教官に。

魚雷の分野を専門に扱い、海軍内の技術を著しく向上させたとして、金鵄勲章きんしくんしょうも受賞しています。

最終的な階級は海軍大将。

海軍次官や軍令部長などの要職も歴任しました。

ちなみに、もっとも影響を受けた上官は、海軍大臣や首相を務めた山本権兵衛やまもとごんべえだったといいますよ。

 

昭和天皇の侍従長に

1929年、鈴木は昭和天皇、貞明ていめい皇后たっての希望で侍従長じじゅうちょうとなりました。

侍従はすなわち天皇のお世話役のことで、トップである侍従長は直属の側近となります。

天皇は鈴木に絶対的な信頼を置いていたわけですね。

一方、鈴木は

「軍人の自分には不適切な職務だ」

と感じていたようですが、

「軍令部長より格下になるから辞退した」

と、周囲から邪推されることを嫌い、この職を引き受けたといいます。

たしかにそう思われてしまっては、なにより天皇に対して失礼になってしまいますよね。

この時期、満州事変のあれやこれやで悩まされていた天皇は、夜な夜な鈴木を呼びだし、しきりに意見を求めたといいます。

天皇は30歳年上の鈴木をまるで父親のように慕い、心の支えとしていたのです。

 

二・二六事件で心停止

侍従長として、昭和天皇からこの上ない信頼を得ていた鈴木ですが、1936年、これが仇となる事件が勃発します。

天皇親政を望む陸軍皇道派によるクーデター未遂「二・二六事件」です。

皇道派の狙いは、天皇に意見する取り巻きを排除し、天皇に直接統治を行ってもらうこと。

侍従長であった鈴木の官邸にも、150人の士官が詰めかけました。

このとき、士官の襲撃を受けた鈴木は四発の銃弾を受けて倒れます。

そして、とどめを刺そうとした士官を制止したのが、タカ夫人でした。

銃を突きつけられながらも、

「どうしてもとどめをさすというなら、私がいたします」

と、気丈に言い放ったタカ夫人。

その様子を見て動いたのが、士官を指揮していた安藤輝三大尉です。

「気をつけ!閣下に対して敬礼!」

そういって、鈴木への敬意を表させると、その場に居合わせた士官たちを全員退かせたのです。

安藤はこれより2年ほど前、陸軍の時局に対して鈴木の意見を直接聞く機会があったという話。

その折、鈴木の懐の深さに感服したといい、今回の襲撃も立場上やむを得ないものだったといいます。

そのため、土壇場で情けを示すこの行動に出たのです。

その後、病院へ運ばれた鈴木は一時心停止するほどの危機にさらされますが、弾丸が急所を外れていたことから奇跡的に息を吹き返すことに。

本人は「運がよかった」と話していますが、なによりその人柄があってこそ、とどめを刺されずに済んだのです。

 

内閣総理大臣として

1945年4月7日、内大臣や首相経験者からなる重臣会議にて、鈴木の内閣総理大臣就任が決まります。

前任の東條英機、小磯国昭はそれぞれ太平洋戦争の戦局を打開できず。

敗戦に向かうこの局面において、天皇から信頼の厚い鈴木こそが、重責を負うのに適任とされたわけです。

首相就任を固辞した鈴木

岡田啓介や近衛文麿など、政府上層部がほぼ一致で賛成した鈴木の首相就任。

しかし鈴木は当初、これを固辞しています。

軍事政権樹立を叫ぶ軍部によって、クーデター未遂も頻発する時勢におき、鈴木が抱いていた信念は

「軍人は政治に関与するべきではない」

というものでした。

そのため、昭和天皇の御前に出てもなお、首相就任の辞退を主張し続けたのです。

しかし、最後は天皇の懇願に折れる形で、首相となることを受け入れます。

「頼む。この危急に際し、もうほかに人がいないのだ」

この言葉を受けた鈴木は、天皇が一刻も早い終戦を望んでいること、

そして時局を終戦に向かわせることこそが、自分の使命だと悟ったといいます。

慎重を極めた終戦工作

鈴木の終戦工作は、とにかく慎重を極めたものでした。

就任直後、ルーズベルト大統領の訃報が届くと

「私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります」

と、アメリカへ歩み寄る姿勢を見せる。

しかし一方で日本の軍部に対しては、徹底抗戦の言葉を投げかけ、士気を鼓舞する。

どっちつかずと取れるこの態度は、

「陸軍の意に背いた言動を見せれば、いつクーデターを起こされてもおかしくない」

と考えてのもの。

徹底抗戦の意志を強くもつ陸軍をなるべく刺激せず、

「もはややむを得ない」

と納得させる形で、終戦を目指さなければならなかったわけです。

連合国からポツダム宣言が発表されてからも、不要な混乱を避けるため、その回答はギリギリまで引き延ばされました。

そして1945年8月、広島と長崎への原爆投下を経て、日本はポツダム宣言の受諾にいたります。

ここでの決断も閣僚たちの会議で意見が大きく割れたため、鈴木は天皇にご聖断を仰ぐ形で結論へ導きました。

こうして8月15日、昭和天皇の玉音放送をもって、日本は終戦を迎えることとなります。

同日、鈴木内閣は総辞職。

「本当によくやってくれたね」

という天皇の声掛けに、鈴木は涙を流したといいます。

終戦を望む天皇の期待に簡単には応えられず、決断を引き延ばさざるを得ない。

そして天皇に責任のすべてを委ねる形で決断を下さなければならない。

その苦しさは想像を絶するものでしょう。

終戦を迎えるまでの10日間ほど、鈴木はほんとに不眠不休で職務にあたっていたといいます。

そんな終戦から3年後の1948年4月17日、鈴木貫太郎は81歳で逝去しました。

最期の言葉は「永遠の平和」だったといいます。

 

きょうのまとめ

海軍トップの立場から昭和天皇の目に留まり、側近となった鈴木貫太郎。

終戦に向かう時局で彼に首相の座が巡ってきたのは、もはや宿命だったのかもしれません。

最後に今回のまとめです。

① 鈴木貫太郎は海軍大将まで上り詰めたエリート軍人。特に日露戦争では敵艦隊に魚雷を次々命中させ、日本を勝利に導いた。

② 昭和天皇からの信頼が厚く、直属の側近である侍従長を務めた。それが災いし、天皇親政を目指した「二・二六事件」では標的にされてしまう。

③ 内閣総理大臣としては、軍部の徹底抗戦を鼓舞しながら、終戦工作を行う慎重な立ち居振る舞いを見せた。すべては終戦反対派のクーデターを避けるため。

「軍人は政治に関与するべきではない」

という鈴木の思想は、武力主導で話を進めてはいけないとするもの。

なにより平和を願う気持ちが表れていますよね。

 
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