小磯国昭とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

第41代内閣総理大臣・小磯国昭こいそくにあき

太平洋戦争も敗戦間近という難局のため、わずか8か月で任期を終えた首相です。

陸軍出身ということで白羽の矢が立った、ある種悲劇の人ともいえます。

昭和天皇も、小磯の首相就任にあまり乗り気じゃなかったという話。

そう言われると、余計にどんな人だったのかが気になってきますよね。

今回はそんな小磯国昭の生涯について。

精一杯尽力したけど、いろいろ失敗しちゃったんです、この人。

 

小磯国昭はどんな人?

プロフィール
こいそくにあき

小磯国昭
出典:Wikipedia

  • 出身地:栃木県宇都宮市
  • 生年月日:1880年3月22日
  • 死亡年月日:1950年11月3日(享年70歳)
  • 陸軍軍人として上り詰め、朝鮮総督、内閣総理大臣を歴任した人物。戦後は東京裁判で戦犯となり、収容された。

 

小磯国昭 年表

年表

西暦(年齢)

1880年(1歳)栃木県宇都宮にて、内務官僚・小磯進の長男として生まれる。

1898年(18歳)山形中学校(現・山形東高校)を卒業。陸軍士官候補生となる。

1900年(20歳)陸軍士官学校を卒業。

1904年(24歳)日露戦争に従軍。

1907年(27歳)陸軍大学校に入学。

1910年(30歳)陸軍大学校を卒業。陸軍士官学校教官となる。

1912~1929(32~49歳)関東都督府、参謀本部、航空本部、陸軍省など、陸軍の多部署を渡り歩く。

1930年(50歳)陸軍省軍務局長となる。

1931年(51歳)軍事政権樹立を目指したクーデター未遂「三月事件」に関与。

1932年(52歳)陸軍次官となる。陸軍内の派閥争いの影響で関東軍参謀長に異動。

1935年(55歳)朝鮮軍司令官となる。

1937年(57歳)陸軍大将に昇格。翌年予備役となり、現役を退く。

1939年(59歳)平沼騏一郎内閣にて、拓務大臣に就任。

1942年(62歳)朝鮮総督に就任。日本との同化を目指した「皇民化政策」を推し進める。

1944年(64歳)前首相・東條英機の失脚により、内閣総理大臣に就任。

1945年(65歳)太平洋戦争下での指揮が振るわず、内閣総辞職にいたる。戦後、GHQ総司令部により、戦犯容疑者として逮捕される。

1948年(68歳)東京裁判で終身刑を言い渡される。

1950年(70歳)食道がんを患い、巣鴨拘置所内で死没。

 

転校を繰り返した少年期

1880年3月22日、小磯国昭は栃木県宇都宮市にて生を受けます。

父は旧新庄藩士で、明治維新とともに内務官僚となった小磯進。

生後間もない小磯は父に伴い、山形県で過ごすこととなります。

父がさまざまな地域で郡長などを歴任したため、小磯自身も山形中学校(現・山形東高校)を卒業するまで、計8箇所の学校を転々としました。

18歳で中学を卒業すると、陸軍士官学校へ入学。

のちに日露戦争で武功を挙げ、陸軍大学校を卒業するというエリートコースを進みます。

陸大時の成績は55人中33番目。

同期のなかでは埋もれた存在だったのですが、陸軍大臣を務めた宇垣一成うがきかずなりに気に入られたことで、以降台頭していきます。

大学卒業後も学問に励んだこと、人柄がよく人望があったことが功を奏したようですね。

 

陸軍によるクーデター未遂「三月事件」への関与

1931年当時、小磯は陸軍省軍務局長として軍政に携わるようになっていました。

そしてこの年の帝国議会に向けて行われた、陸軍幹部によるクーデター未遂「三月事件」にも関与しています。

その内容は「武力を盾に民衆を動員し、当時の濱口内閣に総辞職を迫る」というもの。

首謀者たちは代わりの首相として、陸軍大臣の宇垣一成を立て、日本に軍事政権を樹立させようと画策したのです。

このころは昭和恐慌の影響から、資源確保を目的に中国方面への侵攻が叫ばれていました。

その方針を推し進めるため、陸軍内にも軍部が政権を握るべきだと考える派閥が存在したのです。

この計画は中核となるはずの宇垣がよしとしなかったため、結局は行われませんでした。

ただ、その影響で反対派閥の荒木貞夫が陸軍大臣に就任。

小磯は1932年に陸軍次官となりましたが、宇垣閥排除の動きから半年で関東軍へと異動させられています。

1937年には陸軍大将にも列せられていますが、翌年には予備役に。

こうして小磯は軍人としての現役を退くこととなってしまいます。

 

政治家として

1939年のこと、平沼騏一郎きいちろうに組閣の大命が下ったことで、小磯が拓務たくむ大臣として入閣します。

予備役となってそのままフェードアウトしていくと思われていたところを、突然の起用。

当時の政局はほんとに目まぐるしいものですね。

拓務大臣というのは、日本の植民地事業を司った役職。

その延長線上というべきか、1942年には第8代朝鮮総督となります。

小磯の朝鮮統治

朝鮮総督となった小磯は前任の南次郎を引き継ぎ、皇民化政策を展開しました。

日本語を公用語にしようとしたり、神社に参拝する文化を根付かせようとしたり。

朝鮮人に日本の民族意識を植え付けようという政策です。

小磯は当時

「朝鮮の独立は、北海道や九州が日本から独立するぐらいバカげている」

と語ったというから驚かされます。

現代人には想像がつかない感覚ですよね。

徴兵制の導入は戦時下に置かれた日本の都合?

朝鮮はもともと「志願兵」の制度を採用していましたが、小磯の代でこれが「徴兵制」に変更されています。

国民の意志で兵を募っていたところ、軍への従事が義務となったわけですね。

これも皇民化政策の一環とされていますが、実際のところ、太平洋戦争において兵が不足していたことが理由だったのだとか。

当時の日本の状況を考えると仕方のない部分はあるのでしょうが、なんだか朝鮮の人たちが振り回されっぱなしに見えてしまいます…。

 

内閣総理大臣として

1944年になると、内閣総理大臣として、小磯に組閣の大命が下ることとなります。

小磯が選ばれた経緯

内閣総理大臣の東条英機は、太平洋戦争で劣勢に追い込まれた責任を問われ失脚。

同時に戦況をくつがえせる人物は陸軍関係者しかいないと考えられ、

・南方軍総司令官の寺内寿一ひさいち

・志那派遣軍司令官の畑俊六

の2名と、小磯が候補に挙げられました。

しかし、戦争を指揮する司令官を日本に呼び戻すのは、なかなかに骨の折れる話。

ということで、朝鮮総督の小磯が選ばれることとなったのです。

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東條英機の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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首相としての不安要素

小磯の首相就任は、海軍大臣の米内光政を副首相として、ふたりの共同で組閣を命じられるという特殊なものでした。

というのも、長らく日本の政治に携わっていなかった小磯に対し、昭和天皇が不安を抱いたからです。

対する米内は、首相も海軍大臣も経験している人物。

米内がサポートする形ならと、ゴーサインが出たわけですね。

ちなみに小磯は政治に疎いぶん精神論に走りがちなきらいがあったといい、天皇はその点も懸念していたといいます。

実際、国民に向けた演説も、

「報復の道は戦って戦って戦い抜き、傲慢なる矛先を叩きのめすことであります」

というような、具体的な方策に欠けた内容を繰り返すものだったのだとか。

敗戦を免れない状況に、もはや精神論しか頼れるものがなかったのかもしれません…。

振るわなかった戦争指揮

小磯は軍事政策を円滑に進めるため、陸海軍の指揮系統をひとつにまとめる方針を提案しました。

陸海軍どちらかに権限が傾くのを避けるため、最終的には首相に統制権が委ねられることに。

しかし、この決定はあくまで形式的なもの。

小磯は日本の政務だけでなく、軍務に関してもご無沙汰で、知識をもち合わせておらず、

「知らないくせに口出しするな」

と、軍部から総スカンを食らってしまうのです。

1944年10月からのフィリピン、レイテ島の戦いでも、この軍部からの嫌われっぷりが露見することとなります。

意気込む小磯とは裏腹に、現地では日本の統治に不満を抱いたフィリピン国民が寝返り、フィリピンが陥落。

さらにレイテ沖海戦で日本軍が大敗を喫したことで、レイテ島での決戦は行われない運びとなります。

小磯はこういった状況を軍部から聞かされておらず、演説で

「レイテ島決戦は太平洋戦争の天王山」

などと発言し、大恥をかいてしまうのです。

このほか、陸軍大臣を兼任して権限を得ようともしましたが、これも陸軍側からはねつけられています。

日中和平交渉の失敗

1945年3月、中国国民党から和平交渉の指示を受けた政治家・繆斌ぼくひんが訪日。

アメリカによる空襲も本格的になり、敗戦が間近まで迫った日本にとって、戦局を和らげるこの交渉は願ってもない機会でした。

小磯はもちろん、応じようとします。

しかし、外務大臣の重光まもるをはじめとする反対派に押し切られ、結局は交渉決裂となってしまうのです。

重光は

「中国国民党総裁・蒋介石しょうかいせきと直接的なつながりがない」

と、繆が信用できないことを指摘。

和平交渉を偽り、中国に情報を持ち帰ろうとするスパイだと睨んだのです。

これに関してはさまざまな意見があり、真偽は定かではありません。

ともあれ、この和平交渉の失敗に続き、翌月にはアメリカ軍がついに沖縄に上陸

もろもろの責任を問われ、小磯内閣は総辞職にいたりました。

戦後は東京裁判で戦犯となり、巣鴨拘置所に収容

小磯はその最中、食道がんを患い、1948年、70歳で生涯を閉じることとなります。

収容中、判事の意見書の裏を使って書かれた自叙伝は、現在も新庄市ふるさとセンターで管理されています。
 

きょうのまとめ

首相としての小磯国昭は、やることなすことうまくいかなかった人、という感じ。

ただ、敗戦間近というプレッシャーのなか、「なんとか良い方向に!」と尽力したのは紛れもない事実です。

それこそ生まれる時代が違えば、もっと活躍できた人なのかもしれません。

最後に今回のまとめです。

① 小磯国昭は陸軍の派閥争いにより、一度は予備役に編入された。しかし平沼内閣の組閣を巡って、政治家として返り咲いた。

② 朝鮮総督としては、朝鮮人と日本人の同化を目指した「皇民化政策」を実施。日本語の公用語化や、徴兵制などが取り入れられた。

③ 内閣総理大臣となるも、知識のなさから軍をうまく統制できず。中国との和平交渉も、反対派を説得できずに失敗した。

ゆかりの地である新庄市では、どれだけ世論が不評でも、小磯の後援者が絶えなかったといいます。

結果として失敗はしてしまいましたが、大役を務めたことはたしかに称賛に値しますよね。

 
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