孫権とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

中国における三国時代。

赤壁の戦いによって幕を開けた天下三分の時代に、呉という国を建国した人物、

孫権そんけん

低い身分の出身である彼は、父兄の武勇を引き継いで若くして当主となりました。

孫権とは一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯について、その功績やエピソードを交えながら一緒に見ていきましょう。

 

孫権はどんな人?

プロフィール
孫権

呉大帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:中国 下邳かひ(現在の江蘇省徐州市に位置する県級市の邳州市)
  • 生年月日:182年7月5日
  • 死亡年月日:252年5月21日(享年69歳)
  • 呉の初代皇帝。後漢時代末期~三国時代にかけて活躍した。

 

孫権 年表

年表

西暦(年齢)

182年(0歳)五男三女の内の次男、4番目の子として誕生。

184年(2歳)黄巾の乱を避けるため、母や兄弟と共に九江郡寿春県に移る。

189年(7歳)兄と共に、蘆江郡舒県にある周瑜の屋敷に移住する。

191年(9歳)広陵郡江都県に移住する。その後も争いを避けるために、母や姉妹、弟たちと共に各地を転々とする。

196年(15歳)出仕して陽羨の県令に任命され、以降兄の孫策の下に随従する。

199年(18歳)劉勲を破り、黄祖を討つ。徐州の広陵郡では敗北に終わる。

200年(19歳)兄の死により家督を継ぐ。

203年(22歳)江夏を討伐して黄祖軍を破るも黄祖を逃す。

206年(25歳)山越の麻屯・保屯を討伐する。

208年(27歳)再び江夏を攻めて黄祖を討ち取り、江夏郡の南部を陥落させる。劉備と同盟を組み、孫権・劉備連合軍の結成。赤壁の戦いで連合軍は曹操軍に勝利する。その後、荊州の領有を巡り、劉備と一時緊迫した関係となる。

209年(28歳)妹を劉備に嫁がせて関係を一時修復する。

219年(38歳)関羽を討ち取り、劉備とは完全に敵対関係となった。

221年(39歳)魏の文帝により、呉王に任命される。

222年(40歳)夷陵の戦いで劉備軍を破る。荊州の領有を確実なものとした。

226年(44歳)交州の支配を強化。

229年(47歳)正式に呉の初代皇帝となる。以降も巧みな外交政策により領土や国力を増していくが、一族の後継者争いが絶えなかった。

252年(69歳)家臣に後を任せ、翌日死去。

 

孫権の生涯

ここからは早速、孫権の生涯における主な功績について簡単にご紹介していきます。

若き日の孫権

孫権が誕生した紀元182年

後漢時代末期の中国大陸は、争いの絶えない動乱の時代を迎えていました。

父親の孫堅は元々低い身分の家柄出身でしたが、黄巾の乱に乗じて挙兵すると徐々に頭角を現していきます。

数々の功績を挙げて群雄の一人となった孫堅でしたが、そんな父は孫権が7歳の頃に戦場で死去。

その跡を継ぎ、勇猛で家臣に慕われていた兄の孫策も、孫権が19歳の頃に殺されてしまいます。

兄に可愛がられて15歳の頃には既に県令に任命され、兄の下で戦場や政治に触れてきた孫権は、19歳にして家督を継ぐことになったのでした。

若くして当主となった孫権でしたが、その手腕は高く、父そして兄から引き継がれた家臣たちを的確に登用して内政を固めていきます。

三国時代へ

父に始まり兄の代で江南地方一帯を支配するまでに拡大した孫一族。

後を継いだ孫権もまた的確な政治を執り行なったことで、呉の地に確実な権力を樹立しました。

そしてその権力が拡大したが故に、若き孫権は歴史的な大事件に巻き込まれていくことになったのです。

孫権が20代半ばを過ぎた頃、中国大陸では曹操の軍勢が勢力を拡大し、その北部一帯を遂に制覇します。

そしてその勢いは収まることなく、孫権の治める江南地方、呉の辺りに矛先を向けてきたのです。

孫権の元に曹操からの降伏令状が送られてくるようになると、孫権勢力の内部では抗戦派と降伏派で激しく意見が分かれます。

若き孫権は家臣たちの意見の間で揺れ動きますが、当時同じく南部で勢力を持ち曹操から追われていた劉備の軍勢に同盟を持ち掛けられると、両者は連合軍を結成して曹操を迎え撃つことにしたのでした。

そして208年。

赤壁の戦いにおいて、孫権・劉備の連合軍は見事曹操軍に勝利を収め、曹操の天下統一を阻止。

その後は、曹操劉備、そして孫権の三つの勢力で国を分立支配する、三国時代が幕を開けました。

赤壁の戦い以降

三勢力によって明確に天下が三等分され、平和が訪れるかに思われたのも束の間。

今度は荊州の領有を巡って、孫権は劉備と対立することになります。

一時は和睦したものの、漢王朝の復興を目論む劉備の勢力拡大を恐れた孫権は、曹操の後を継いで魏を治める文帝に助けを求めます。

そして魏と同盟を組み、219年に劉備の盟友関羽を討ち取ったことで、孫権は劉備と完全に敵対することになりました。

222年、40歳の時に夷陵の戦いにおいて劉備軍に勝利を収めると、孫権は荊州の領有を確実なものとします。

その後も巧みな人材登用や外交によって勢力を拡大していった孫権。

彼は47歳を迎える頃には、正式に呉の国の初代皇帝の座に君臨することになりました。

晩年まで彼の政治的手腕は衰えず、国力や勢力を拡大し維持することにも成功しています。

しかしその一方で、内部での後継者争いが大きな問題となり、孫権の悩みの種となっていたのでした。

 

 

孫権にまつわるエピソードや伝説

ここでは孫権の人物像にさらに迫るために、彼にまつわるエピソードをご紹介していきます。

兄とは色々と逆

黄巾の乱で台頭した父、孫堅の元に誕生した孫権と兄の孫策

7歳年の離れた2人は何かと相違点が多いのです。

孫策
・美男子にして一騎打ちにも動じない勇敢さを持つ。

・同じ年の周瑜と堅い友情を結び、絶世の美女を妻に持つ。

・26歳の若さで死去。

・例えるなら「動」

孫権
・四角い顔に大きな口を持ち胴長短足。

・騎馬や弓矢に長じる。

・自ら先頭に立つことよりも、家臣の登用に優れていた。

・例えるなら「静」

兄の孫策が華やかな印象と共に知られているが故に、弟の孫権は何かと地味な存在として捉えられがちです。

しかし、孫策の活躍により後の呉が基盤を固め、孫権の継承と活躍により呉が一国として成立。

兄弟揃ってそれぞれに得意分野で能力を発揮し、呉を築いたと言えるのです。

後継者問題

晩年は後継者問題に頭を抱えることになった孫権。

彼は最初に、後継者として三男・孫和を太子に立てていました。

しかし四男・孫覇を寵愛するあまり三男と同じ処遇にしてしまったことで、息子二人を巡る家臣たちの間で亀裂が生じたのです。

それぞれを次期皇帝に就けようとする豪族間で対立が起こり、当人たちも不仲になると、孫権は2人を他者から遠ざけて勉学に励むよう進言します。

しかし結局2人の対立が収まることはなく、家臣を巻き込む7年に渡るこの問題は、孫権が最終的に末っ子の孫亮を太子にしたことで幕を閉じました。

最終的に太子に選ばれた孫亮は、孫権の死後次期皇帝に即位しています。

 

きょうのまとめ

今回は、孫権について、その生涯を主な功績やエピソードを交えてご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

何か新たな発見はありましたか。

最後に、孫権とはどのような人物だったのかを簡単にまとめると

① 中国の三国時代において、呉の初代皇帝になった人物。

② 下級身分出身にして父兄と同様に若い頃から有能であり、特に人材登用や政治で手腕を発揮した。

③ 国力を安定させる一方、晩年は後継者争いを引き起こした。

三国時代を題材にした物語や人物については、現在にも様々な形で伝えられています。

しかし、その中のどの人物に焦点を当てるかによって、出来事に対する印象やイメージは大きく異なってくるものです。

限りなく真実に近い歴史を知るためには、あらゆる方向から検証したうえで、俯瞰的に捉えることが重要なのかもしれません。

 
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