清王朝や帝国主義の欧米列強を打倒し、
中国に近代的な立憲国家をもたらそうとした孫文。
どんなに失敗が続いても革命を諦めなかった孫文は、
やがて世界中で革命家としての知名度を上げていきました。
孫文とはどんな人物だったのでしょうか。
今回は革命に生きたその生涯に迫ります。
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孫文はどんな人?
- 出身地:中国 広東省香山県(現在は中山県)
- 生年月日:1866年
- 死亡年月日:1925年3月12日(享年59歳)
- 革命家。中国革命の父、国父。清王朝を打倒し、中国に近代国家をもたらそうとした
孫文 年表
西暦(年齢)
1866年(0歳)広東省の農民出身である華僑の一家に生まれる。
1878年(12歳)ハワイで成功していた兄のもとに居候し、ミッション系スクールで中等教育を受ける。
1883年(17歳)中国に戻り、広州の博済医院付属医学校、香港の西医書院で医学を修める。
1892年(26歳)マカオで医者として開業。
1894年(28歳)ハワイで革命組織の興中会を組織。
1895年(29歳)日清戦争終結後、広州で反清武装蜂起を企てたが密告され失敗。日本に亡命する。
1896年(30歳)ロンドンに渡り、清国大使館に監禁されたが西医書院時代の恩師に救出される。
1897年(31歳)再来日し、宮崎滔天や平岡浩太郎、犬養毅たちと交流し活動の支援を受けた。
1900年(34歳)日本陸軍から武器援助の密約を受け、広東省恵州で蜂起したが失敗。その後も失敗が続いた。
1905年(39歳)革命資金調達のため世界を巡り、革命家として知名度が上がったなか、中国同盟会を結成。『三民主義』を表明。
1911年(45歳)辛亥革命(第1革命)勃発。翌年、南京で中華民国臨時政府が樹立し、臨時大統領になる。
1912年(46歳)南北妥協により大統領の座を袁世凱に譲ったが、独裁を強化され第2革命を起こすも失敗。再度日本に亡命。
1914年(48歳)東京で中華革命党を組織。翌年、袁世凱が帝政を復活させ皇帝に即位すると第3革命が勃発。
1919年(53歳)中華革命党を中国国民党へと改組。ロシア革命に注目し、中国共産党に接近する。
1924年(58歳)1月に第1次国共合作を成立、反軍閥・反帝国主義をかかげた。9月に北方軍閥討伐の兵を挙げる。
1925年(59歳)3月12日、癌により療養先の北京で死去。
お尋ね者、孫文
孫文は1894年、28歳のときに革命組織の興中会を結成すると、
それ以降生涯にわたって革命運動に従事しました。
1895年にハワイで資金を調達した孫文は、最初の反清武装蜂起を実行するため帰国しますが、
密告により清朝側にその計画が漏れて蜂起は失敗に終わります。
それ以降お尋ね者となった孫文は、日本を含め世界各地を転々と渡り歩きながら
革命運動を行うことになりました。
なかでも孫文が世界的に革命家として有名になるきっかけとなったのが、
イギリスのロンドンで起きた出来事です。
最初の革命失敗により日本からハワイ、アメリカを経由して1896年にロンドンに来た孫文は、
清国の大使館によって監禁されてしまいました。
このまま中国に送り帰されれば、間違いなく処刑されるという危機に直面した孫文でしたが、
この事件を知ったイギリス政府が孫文の解放を求めたため、彼はすぐに釈放されています。
一人の革命家のために政府が動くなんてちょっと驚きですが、
その背景には孫文が香港の西医書院で教わっていた時期の恩師が、イギリス政府や新聞社に
政治犯の不当な監禁が行われていることを訴えたためだと言われています。
こうして最大の窮地を脱した孫文は、その後ヨーロッパを中心に世界中で
「奇跡の革命家」としてその知名度を上げることになったのです。
関連記事 >>>> 「孫文のかかげた三民主義 その内容や歴史を解説」
意外と知らない?孫文にまつわるエピソード
「中国の革命家」として広く世界で知られるようになった孫文ですが、
実は意外と知られていない事実がいくつかあるんです。
ここではそんな孫文の意外な一面をご紹介していきます。
キリスト教信者だった
孫文は10歳前後の少年時代に父親を亡くしていて、
12歳になるとハワイで財を成していた兄の元へ居候することになりました。
そして現地のキリスト教系の学校で教育を受けるようになります。
事実上アメリカの支配下にあったハワイでは、
教育現場においてもアメリカ的な合理主義が根付いていました。
このような環境で青春時代を過ごした孫文は、
やがてアメリカ的な考えやキリスト教にも関心を示すようになります。
やがてその様子を心配した母や兄によって孫文は中国に連れ戻されますが、
革命活動を開始するずっと前に洗礼を受け、キリスト教徒になっています。
医者をやっていた
中国に帰国後、孫文はいきなり革命家として活動し始めたわけではなく、
現在の香港大学で医学を学び、中国人として初の博士の学位を取得しています。
そして卒業後にはマカオで医者として開業しました。
医師として働くかたわらで徐々に政治活動の方に傾倒していった孫文は、
やがて医者として個人を救うことよりも、中国全体の危機を救うことの方が先だ
と考えるようになり、革命家としての道を歩むことになるのです。
ちなみに、香港大学の学生時代に孫文が影響を受けたイギリス人の恩師は、
後に孫文のロンドンでの窮地を救い、有名になるきっかけを作った恩人となるのです。
好色だった?!
孫文は、日本に滞在していた1902年に日本人女性の大月薫と出会い、結婚しました。
しかし、実は孫文には中国に残してきた妻と3人の子供たちがいたのです。
中国人の正妻は孫文が18歳のときに親が決めた相手だったと言われていますが、
この日本人女性を愛してしまった孫文は、駆け落ちというかたちで結婚することを選びました。
さらになんとこの頃、孫文にはもう一人浅田春という愛人がいました。
そしてこの女性ともよく行動を共にしていたと周囲からは言われています。
ちなみに日本人の妻、大月薫とは孫文が帰国する際に離婚しているため、
その夫婦期間は短いものでしたが一女を授かっています。
孫文はその生涯のなかで、公式と非公式を合わせて4人の女性と結婚したと言われていますが、
特によく知られているのが最後の妻、宋慶齢です。
彼女自身も中国の政治家で、孫文とは東京で結婚しています。
このとき孫文は48歳、宋慶齢は22歳でした。
革命に生涯を捧げた孫文でしたが、その波乱に満ちた人生を乗り越えていけたのは、
孫文のかたわらで献身的に支え続けた美しい女性たちがいたから、とも考えられますね。
きょうのまとめ
今回は中国の革命家、孫文についてその生涯やエピソードをご紹介しました。
いかがでしたか?
孫文とはどんな人物だったのか、簡単にまとめると
① 中国に近代国家をもたらすために革命を起こした最初の人物で、清王朝の打倒を果たした
② 青春時代を西洋思想に触れて過ごし、一度は医者になったが革命家として世界を転々としながら活動するようになる
③ 西洋的な思想を中国に適合させた独自の政治理論、「三民主義」をかかげ革命の指導者となり、中国革命の父と呼ばれるようになる
「革命いまだならず、同志によってすべからく努力すべし」
という有名な言葉を残し、この世を去った孫文。
彼の死後、精神的にも政治的にも支柱を失った国民党は、混乱の渦に飲み込まれていきました。
孫文の片腕は暗殺され、部下たちの対立が起き、最高顧問は解雇されるなどなど。
一人の人間の時は止まっても、時代の流れは留まることを知らないのです。
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