シーボルトとペリーの確執|日本と深く関わったふたりの意外な関係

江戸時代後期、長崎・出島のオランダ商館付医師として来日し、日本に西洋医学を伝えた

シーボルト

彼は帰国後も日本の魅力をヨーロッパ諸国に伝え、日本と諸外国の関係作りに貢献した人物でもあります。

そんなシーボルトと同じぐらい、江戸時代の日本と関係が深かった外国人がもう一人いますよね。

そう、黒船来航で日本を開国させた、アメリカ海軍の艦隊司令長官マシュー・ペリーです。

実はこのふたり、それぞれが日本に関係しているだけでなく、意外な接点があります。

なんでもすごく仲が悪かったとか…?

 

ペリーは来航前、シーボルトの著書を参考にしていた

マシュー・カルブレイス・ペリー

マシュー・カルブレイス・ペリー
出典:Wikipedia

1853年、中国との貿易の足掛かりを作るため、神奈川県浦賀沖に来航し、日本に開国を迫ったペリー。

結果、日米和親条約が結ばれ、日本の鎖国を崩したことで、日本と関係を持ちたがっていたヨーロッパの国々から称賛を受けることになりました。

そんな彼には来日前、日本の事前情報を得るためにシーボルトの著書を参考にしたという話があります。

シーボルトは1830年に長崎の出島からオランダへと帰り、持ち帰った資料を元に全7巻に渡って日本のことを記した著書

『日本-日本記録集成-』

を作成しました。

この書籍が、ペリーが来航する際にもっとも参考になった資料だったといい、彼は自著『ペリー日本遠征記』のなかで

ペリー
もっとも優れた情報提供者だ

と、シーボルトのことを称えています。

この時代、鎖国状態の日本の情報が海外に出回ることなどほぼありません。

その点、オランダ商館付の医師として実際に来日したシーボルトの情報は、かなり貴重なものだったのですね。

 

シーボルトとペリーの確執とは?

シーボルト肖像画
出典:Wikipedia

ここまでを見ていると、ペリーはある種、シーボルトを尊敬しているぐらいに見えます。

しかし…その後、彼らのあいだには確執が生まれていきました。

え…?だってペリーはシーボルトのこと褒めてたじゃん…なんでそれで仲が悪くなるの?

と、思うところ。

この後のシーボルトの行動に問題があったんですよね。

黒船に乗せてくれとしつこかったシーボルト

『日本-日本記録集成-』だけではなく、『日本植物誌』『日本動物誌』なども著したシーボルトは、いってしまえば大の日本オタクでした。

彼はできることなら、もう一度日本に行きたい。

しかし鎖国している日本は、簡単に入国できるような国ではありません。

おまけにシーボルトは日本の資料を海外に持ち出そうとした罪で、1829年に日本からの国外追放を受けている身です。

それでも、どうしても日本に行きたい…もう20年ぐらい遠ざかっているし…。

そんなときにシーボルトの耳に入ったのが、アメリカが日本に開国を迫るため、来航するという話です。

これを聞いたシーボルトは、ペリーに

シーボルト
私も黒船に乗せてください!

と猛アピール。

大好きな日本の開国に、自分もぜひ携わりたいと思ったわけですね。

でも、ペリーからしてみれば、

ペリー
これから日本に交渉しに行くっていうのに、一度国外追放されてるヤツなんか連れて行ったら印象悪いじゃん…

という感じです。

そのため彼はシーボルトからのアピールを断るのですが、それでもシーボルトはしつこかった。

自分を黒船に乗せるようにと、権勢家や国の最高権力者にまで推薦を取り付けてお願いしてきたというのです。

これもペリーは断るのですが、相当難儀したと自著のなかでも語っています。

いくら権力者からの推薦だといっても、シーボルトを乗せて国の交渉を決裂させてしまったら、来航の意味がありませんからね…。

まあ、これに関しては正直ペリーも

「ちょっとうぜーな…」

ぐらいで済んでいたっぽいのですが…、シーボルトの次の行動がふたりの確執をさらに強めさせます。

日米和親条約締結後の負け惜しみがすごい?

ペリーの功績によって、日米和親条約が締結された数ヶ月後のこと、シーボルトは開国に関する小冊子を刊行しました。

そのなかで彼はこのように残しています。

シーボルト
日本に開国させたことに関して、アメリカではなくロシアに感謝せねばならない

直々に交渉を行ったペリーからすれば、「は?」という感じですよね。

そう、完全に黒船に乗せてくれなかった負け惜しみです。

しかもなんでロシア?

これは実のところ、ペリーの来航日に合わせて、ロシアが秘密裏に日本へ艦隊を向かわせていたことが理由です。

ロシアは日米が万が一、交戦したときにおこぼれを頂戴しようとしていたのだとか。

日本に助け舟を出して、あわよくば自分たちが条約を結んでしまおう的な?

それともアメリカに味方して「協力してやったんだから分け前よこせ」的な感じですかね?

そして前述のシーボルトの文章を踏まえると、完全にシーボルトがロシアと結託していますよね。

ほんとに、なんとしてでも開国に携わりたかったんだろうな…。

真意はわからないのですが、この文章を読んでペリーは

「シーボルト、ちょっとうぜーな」から「シーボルト、ただのスパイやんけ!」

と、なってしまったのでした。

さらにシーボルトは同書のなかで

シーボルト
私はオランダ国王にも日本に開国を促す親書を発行させたり、けっこういろいろ頑張ってたんだよ

などと、努力自慢までし始め、ペリーは彼が完全に嫌いになってしまいました。

シーボルト…それだけ日本が好きだったってことだよね?

 

きょうのまとめ

シーボルトとペリーのあいだには、それぞれ「日本大好き」「なんとしてでも開国を取り付ける」という、強い想いがありました。

それぞれの想いがぶつかった結果、ふたりのあいだには確執が生まれてしまったわけですね…。

ほとんどシーボルトが悪い気もしますが。

最後に今回のまとめです。

① シーボルトの残した日本の記録は海外に出回っているものでは一番精度が高く、ペリーも来航の参考にした。

② どうしても日本に行きたかったシーボルトは黒船に乗ろうとしたが、「一度国外追放されてるようなヤツは乗せられない」とペリーに断られた。

③ 日米和親条約の締結後、シーボルトは「日本の開国はアメリカじゃなくてロシアのおかげ」と言ってペリーを怒らせた。

というか国王に親書の発行を促したり、ロシアにも根回ししていたり、日本のこととなるとシーボルトの本気ぶりがすごい…。

ある意味、史上でも稀に見る親日家じゃないでしょうか。

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