『三国志』の登場人物として、おそらく真っ先に思い浮かべる人の多い、
諸葛孔明。
孔明は字で、本名は諸葛亮と言います。
戦略に優れた知的な人物としてしばしば描かれる彼は、天才軍師としてよく知られています。
諸葛亮とは、一体どのような人物だったのでしょうか。
今回は、その生涯や主な功績について、エピソード等を交えながら簡潔にご紹介していきます。
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諸葛亮はどんな人?
- 出身地:不明 本籍は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省)
- 生年月日:181年?
- 死亡年月日:234年(享年54歳)
- 中国後漢時代末期~三国時代蜀漢の軍師、政治家。「天才軍師」として知られる。
諸葛亮 年表
西暦(年齢)
181年?(0歳)生年月日、出生地共によく分かっていない。おそらく幼少期に徐州から荊州へ移住している。
200年(19歳)「三顧の礼」により劉備の臣下となる。
208年(27歳)赤壁の戦いに劉備軍の軍師として参加。
211年(30歳)長江を遡上して郡県を平定。
214年(33歳)劉備と共に益州を平定。
221年(40歳)劉備が蜀漢を建国したことで丞相に就任。
225年(44歳)益州南部四郡を平定。
227年(46歳)北伐を開始。以後5度にわたって魏に挑んだ。
229年(48歳)第3次北伐を決行。
230年(49歳)「子午の役」に乗じて西に軍を進める。
231年(50歳)第4次北伐を決行。
234年(54歳)第5次北伐の最中の8月、五丈原の戦いで患っていた病により死去。
諸葛亮の生涯
ここからは早速、諸葛亮の生涯における主な功績について簡単にご紹介していきます。
静かな少年時代
実は、その出生地や正確な生年月日が不明とされている諸葛亮。
彼の本籍は現在の山東省の辺りと言われていますが、その詳細な記録は残っていないのです。
先祖は前漢の元帝時代に官職を務めていた諸葛豊で、父親の諸葛珪は泰山郡で副長官を務めていました。
しかし幼くしてその父親を亡くした諸葛亮は、その後徐州から南へ移住し、荊州の辺りで兄弟と共に自給自足をする傍ら勉強する生活を送っていました。
後の天才軍師の聡明さはこの頃から既に現れており、自身でもある程度の自覚はあったようです。
そしてこの時期には地元の名士の娘と結婚していますが、幼少期から少年時代後半にかけての諸葛亮の日々は、総じて静かなものでした。
劉備との出会い
以外にも当時は、その聡明さや存在についてはごく一部の人にしか知られていなかった諸葛亮。
そんな彼の穏やかな人生が大きく動き出したのは、20歳を目前にした年(生年月日の説が正確だった場合)。
後漢時代末期の闘争と混乱の波が、彼の能力を放ってはおかなかったのです。
諸葛亮が慎ましい生活を送っていた頃、彼の友人である徐庶という人物は、彼等の領主である劉備の元を度々出入りしていました。
そして徐庶は、諸葛亮のことを劉備に話したのです。
諸葛亮に対して興味を持った劉備は、徐庶に彼を説得して連れてくるよう頼みます。
しかし、「自分の説得では彼は了承しない」と徐庶に断られた劉備が、諸葛亮の元へ直々に訪ねてきたのです。
1度目、そして2度目は諸葛亮の留守により面会が叶わなかった劉備。
しかし3度目にしてようやく対面した二人。
漢王朝復興を目指す劉備のその熱意に打たれた諸葛亮は、こうして彼の臣下となったのです。
20歳以上も年の離れた身分の高い劉備が、一般人でしかなかった諸葛亮を3度も訪ねたこのエピソードは、「三顧の礼」として有名になりました。
天才軍師の誕生
劉備の臣下として仕えることになった諸葛亮。
中国全土が動乱の時代にある中、かつての漢王朝を再興し再び統一国家の成立を目指していた劉備に、彼は方策を尋ねられます。
そのときに披露したものが「天下三分の計」です。
この方策について以下で簡単にまとめてみます。
まず、現状の中国大陸で一番強い勢力を持つのは、北方を制覇した曹操でした。
そこで次に予想される曹操の南下に備え、劉備の治める荊州の隣、益州の覇権を劉備が先に握ることを提案。
さらに、もう一つの勢力である孫権と同盟を組むことで曹操の勢いを抑え、天下を三等分することを提案。
その後に孫権と共に曹操を倒し、隙を窺って孫権も倒せば再び漢王朝を成立させることができる。
といったものになります。
諸葛亮の知略の深さにすっかり魅了された劉備は、その後も生涯彼を軍師や信頼のおける家臣として頼ったのです。
実際に三国時代幕開けのきっかけとなる赤壁の戦いの際にも、諸葛亮は孫権との同盟締結のために奔走し、連合軍は見事曹操軍に勝利しています。
栄枯盛衰
後に劉備が蜀漢を建国したことで、諸葛亮も昇進。
丞相そして録尚書事という、2つの官職を兼任するまでになりました。
しかし孫権の治める国の裏切りによって、復讐に燃えていた劉備が失意のうちに亡くなると、その後の諸葛亮は主上の無念を晴らすために奔走します。
蜀漢を任された彼は、劉備の悲願だった漢王朝復興を果たすべく、その後の生涯を北伐に捧げるのです。
約8年間、5度にわたる北伐を決行した諸葛亮は、圧倒的な国力の差を見せつけられながらも持ち前の知略を活かして善戦したこともありました。
しかし兵力不足や食糧不足など、彼一人の能力ではどうにもならない障壁が多く、最期には第5次北伐の最中にその陣中で病に倒れ亡くなったのです。
諸葛亮にまつわるエピソードや伝説
ここからは、諸葛亮の人物像にもう少し迫るべく、彼にまつわるエピソードや伝説をご紹介していきます。
以外にも・・・
聡明で知的な参謀、天才軍師。
そのイメージはどことなく涼し気で、武将たちのような力強い大男の姿を思い浮かべる人は少ないのではないでしょうか。
しかし実際のところ、数少ない諸葛亮の個人的な記録の中でひとつだけはっきりしているのが、彼が高身長だったということです。
体格までは不明ですが、180㎝以上あったことは確実で、中には190㎝以上という説もあります。
誇張された能力
史実を基にして書かれた歴史小説『三国志演義』。
この作品は娯楽目的も含まれた物語小説であるため、そこに描かれる逸話や人物像はしばしば誇張され、ダイナミックに描かれています。
そしてここに登場する諸葛亮はまさに完璧な超人であり、無理難題も易々とこなし、神通力や占術などにも精通した人物として描かれています。
予言を的中させたり、祈祷によって風を起こすその神秘に満ちた姿は、彼自身の現代まで続く人気を高める要素になっているのです。
きょうのまとめ
今回は『三国志』に登場する人物の中で、最も人気が高いと言われる諸葛亮について、その功績やエピソードと共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
新たな発見はありましたか。
最後に、諸葛亮とはどのような人物だったのか簡単にまとめると
① 中国後漢時代末期~三国時代にかけて活躍した軍師、戦略家。
② 後に蜀漢の皇帝となる武将、劉備に引き入れられ臣下として生涯支えた。
③ 劉備の死後も漢王朝復興を掲げる蜀漢のために生き、戦の最中に病死した。
義理堅く人望のあった劉備。
そんな彼にその死後も仕え続けた諸葛亮もまた、義理堅く忠誠心の強い人物だったと言えるのではないでしょうか。
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