戦後、アメリカ統治下の日本において、首相・吉田茂を側近として支えた政治家
白洲次郎。
敗戦国でありながら、アメリカと対等であり続けようとした白洲の姿勢はGHQからも
「従順ならざる唯一の日本人」
と評価されるほど。
彼の存在がなければ、戦後の日本はアメリカの操り人形になり、現代の状況も変わっていたかもしれません。
およそ日本人らしからぬ過激な発言を見せる破天荒さと、それでいて一本筋の通った人となり。
今回はそんな白洲次郎の人物像を、彼の残した名言から垣間見ていきましょう。
タップでお好きな項目へ:目次
政治家・白洲次郎の名言
白洲には政治家としての一面・実業家としての一面がそれぞれあり、彼はどちらの面でもたくさんの名言を残しています。
まずは政治家としてGHQとの交渉に当たったときの名言から見ていきましょう。
我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない
GHQとの交渉中、白洲が連合国最高司令官のマッカーサーに言ったとされる名言です。
GHQの方針は取り入れるが、それはあくまで日本をよりよくするためであって、アメリカの利益のためではない。
戦争に負けはしたものの、国としては対等であるという確固たる意志が感じられますね。
吉田首相が英語でスピーチをしようとしたときにも、
と、日本語に訂正させた逸話があります。
また白洲がこのような毅然とした態度でGHQと相対したことには、以下のような考えも語られました。
プリンシプルとはなんと訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。
アメリカ人は、自分の意志をはっきりもたない人をよく思わない風潮が強いです。
一方、日本人というのは自己主張よりも協調を重んじてきた面があり、人と違う意見を言うことが苦手な人も多いですよね。
でもそれだと、みんなが自己主張をして当たり前なアメリカ人には舐められてしまう。
白洲がたとえマッカーサー相手でもひるまず意見したのは、日本人的な対応ではほんとに国がアメリカの好きにされてしまうと感じてのことだったのでしょう。
国際化の進んだ現代でも、白洲ほど臆せずに海外諸国を相手できる政治家はなかなかいません。
そう思うとほんとに、戦後の日本にいてくれたことが運命的だったのだなと感じさせられますね。
白洲次郎の仕事論を物語る名言
続いては実業家としての白洲の名言を辿っていきましょう。
人に好かれようと思って仕事をするな
東北電力の会長をしていたころ、ダムの建設を依頼した建設会社の社長に語ったとされる名言。
このとき白洲が語った「人に嫌われること」というのは、もちろん他人に害をなすようなことではなく、要は「人と違うことをしろ」ということです。
これも協調を重んじる日本人によく当てはまることで、私たちには無意識に
「人と違うことはいけないことだ」
という観念が浸透しています。
現代でもSNSなどを見ていると、前代未聞の挑戦をする人がいれば、応援する人よりも
「上手くいくわけがない」
と叩く人のほうがずっと多いです。
その挑戦がうまくいっても自分がなにか害を被るわけではないのに、なんとなく現状維持の人が多いほうが安心できる。
他人が大成すると自分が無力に思えてしまうのが嫌、といった理由で多くの人が足を引っ張ろうとします。
そして挑戦する側にしても、叩かれるのを恐れた結果、大半の人が無難な形に収まってしまう。
白洲はそんな日本の風潮に対し、
「人と違うことをしなければ大きな成果を残すことはできない」
と、警鐘を鳴らしていたわけですね。
このことをもっとわかりやすく語った、以下のような名言もあります。
成果を残したい人は自分の損得ではなく、それが”世の中にどういう影響を及ぼすのか”を軸に行動を考えていかなければならないのでしょうね。
後ろでふんぞり返っているヤツはみんなバカだ
白洲が社用車の運転手に語った名言です。
東北電力をはじめ、名立たる企業で会長や役員を歴任してきた白洲は、決してその地位におごらない人でした。
社用車に乗るときは後部座席ではなく、いつも運転手の隣、助手席に座っていたのです。
後部座席はたしかに偉い人が座る印象がありますし、助手席に座る人には運転を補佐する役目があるような感じもします。
そういったイメージに囚われず助手席に座り続けた白洲には、以下のような考えがあったのではないでしょうか。
・自分が仕事に集中できるのは、目的地まで運んでくれる運転手がいてこそ
仕事はひとりの実力だけで回るものではなく、部下に雑な扱いをすれば、困るのは最終的に自分です。
はみ出し者に見える白洲ですが、なにより周りの人を大事にできる人だったのですね。
白洲次郎の逸話
終戦連絡中央事務局に務めていたころの白洲には、GHQとの交渉時以外にもいくつか破天荒なエピソードが残されています。
せっかくなので以下で紹介しておきましょう。
昭和天皇の贈り物を雑に扱ったマッカーサーを怒鳴りつける
マッカーサーと白洲の逸話といえば、前述のGHQとの交渉時に白洲が
と、マッカーサーに面と向かって言ったことが有名です。
しかしそれよりインパクトがあるのは、白洲がマッカーサーを怒鳴りつけた逸話でしょう。
事件はクリスマスの日、昭和天皇がマッカーサーに贈り物をし、白洲がこれを届ける役目を買って出たときのことです。
このとき、悪気があったのかは定かではありませんが、マッカーサーは白洲が届けた贈り物を
と、いかにも興味がないかのような言い草であしらいました。
すると白洲は激怒し
と、マッカーサーを怒鳴り散らしたのです。
マッカーサーもこれには驚き、すぐに謝ったといいます。
ちなみにいうと、白洲はマッカーサーが特別嫌いということはありません。
白洲は趣味の日曜大工で家具をたくさん作っており、マッカーサーにも自分が作った椅子を贈っていたりするんですよ。
白洲はいつもケンカ腰なわけではなく、怒るときには必ずそれなりの理由があります。
当時は世間からも
「上からものを言う人だ」
などといわれ、評価がよくなかったのですが、それは過激な一面ばかりが取り沙汰されたからなのでしょうね。
GHQ民生局長と嫌味の言い合い
交渉以外の場面で白洲に一杯食わされたアメリカ人はもう一人います。
GHQ民生局長のコートニー・ホイットニーです。
日本国憲法の草案を考えた人ですね。
ホイットニーと白洲のあいだで交わされた会話は、それぞれの英語のイントネーションに対する嫌味です。
白洲が卒業したケンブリッジ大学と、イギリスのオックスフォード大学には、学生たちが話す英語に名門大学特有の「オックスブリッジアクセント」というなまりがありました。
要するに白洲は英語を話す人のなかでも、古臭くて賢そうな雰囲気で話す人だったのです。
これに対してホイットニーは
と、鼻で笑うようにしてバカにしたといいます。
きっと”母語でもないのに偉ぶった話し方をするな”といったニュアンスでの発言だったのでしょう。
すると白洲は
と切り返します。
…これは皮肉たっぷり。
バカにしたつもりが白洲は全然応えていません。
ちなみにホイットニーはワシントン大学の法学部を出て、博士号まで取得しているほどのエリートなのですが…頭の回転でいえば、ある意味白洲のほうが上なのかも…?
きょうのまとめ
白洲次郎の名言を辿ると、一見過激には思えるものの、すべてに納得させられる背景があるとわかります。
どんなに立派なことを言っても、行動が伴わなければ説得力はありません。
少年時代は札付きの悪だった彼が、名門ケンブリッジ大学を卒業し、日本を支える政治家にまでなる。
名言の数々は、白洲の並々ならぬ努力があって初めて語れるものだったのでしょう。
最後に今回のまとめです。
① 白洲次郎は「自己主張ができないと西洋人には舐められてしまう」という考えから、GHQにも毅然とした態度で意見していた。
② 人は自分を無力だと思いたくないがゆえに、挑戦をする人の足を引っ張る。しかし叩かれることを恐れていては、大きな成果を挙げることはできない。
③ 白洲次郎は会長でありながら、部下である運転手とも対等に接した。
その他の人物はこちら
明治時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【明治時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
アップありがとうございますございます。一つ追加していただきたい重要なエピソードが抜けているように感じました。それは天皇陛下からマッカーサーへのクリスマスプレゼントの逸話です。私は白洲次郎さんが好きなのです。追加していただくとうれしいです。よろしくお願い致しますm(_ _)m
コメントありがとうございます!
白洲次郎さんが好きなんですね。
マッカーサーへのクリスマスプレゼントの逸話は、白洲次郎さんの人柄をよくあらわしていて面白い逸話ですね。
追記させて頂きました。