島津義弘とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

戦国時代に興味のある方なら、九州一の勢力となった島津の名を一度は耳にしたことはあるでしょう。

彼ら島津家の中心人物の一人、島津義弘しまづよしひろとはどんな人物だったのでしょうか。

 

島津義弘はどんな人?

プロフィール
島津義弘

島津義弘
出典:Wikipedia

  • 出身地:薩摩国(現在の鹿児島県)
  • 生年月日:1535年8月21日
  • 死亡年月日:1619年8月30日(享年85歳)
  • 島津家の勢力拡大に活躍して「鬼島津」と恐れられ、徳川家康や豊臣秀吉さえ一目置いた。関ヶ原の戦いでは驚異の敵中突破を成功させた。

 

島津義弘 年表

年表

西暦(年齢)

1535年(1歳)薩摩にて誕生

1554年(20歳)岩剣城での戦いで初陣を飾る

1566年(32歳)兄・義久が島津家第16代当主となる

1572年(38歳)木崎原の戦いで伊東家を破る

1578年(44歳)耳川の戦いで大友宗麟を破る

1584年(50歳)沖田畷おきたなわての戦いで島津・有馬連合軍が龍造寺隆信の軍を破る

1587年(53歳)戸次川へつぎがわの戦いで豊臣勢を撃破。筑前と豊前以外の九州を統括するが、のち根白坂の戦いにて豊臣勢に惨敗

1592年(58歳)朝鮮出兵(文禄の役)

1597年(63歳)朝鮮出兵(慶長の役)

1598年(64歳)泗川の戦いで明・朝鮮の大軍を撃破。朝鮮からの退却に貢献

1600年(66歳)関ヶ原の戦いで西軍に与する。四方を敵に囲まれるが、敵中突破(島津の退き口)で薩摩へ帰国

1602年(68歳)家康より所領を安堵される。家督を3男・忠恒に譲り隠居

1619年(85歳)大隅の加治木にて死没

 

島津義弘の生涯

島津貴久たかひさの次男として誕生した島津義弘よしひろ

幼い頃から勇敢で活発で、将来有望とされた彼の生涯は、多くの戦に彩られています。

島津家当主・義久を支える弟として

島津義弘は、1554年の初陣から常に島津家のために全力を尽くすファイターでした。

兄の義久が家督を継ぐと、その兄を支えて活躍しています。

・1557年 大隅の蒲生氏との戦い

・1566年 小林城攻め

・1571年 日向の伊東義祐による飯野城攻略

などの戦闘で深手を負った記録もありますが、

・1572年 木崎原の戦いで「釣り野伏せ」の奇襲成功(300で3000の兵を破り「九州の桶狭間」と呼ばれた)

・1578年 耳川の戦いで兄・義久と共に豊後国・大友宗麟の3万の軍に勝利

・1585年 阿蘇氏を降伏させる

・1586年 豊後侵攻で大友領を侵食

など兄に代わり島津軍の総大将としてめざましい活躍をしています。

九州の大部分を制圧した島津家は56万石となり、九州統一は目前でした。

豊臣秀吉の強大な力に屈する島津

豊臣秀吉

ところが、危険を感じた豊後国の大友宗麟豊臣秀吉に臣従して援軍を求めます。

1587年、秀吉は10万の九州征伐軍を送りました。

対する島津は3万5千の兵。

日向の根白坂の戦いでは、義弘自ら抜刀して敵軍に斬り込み奮戦しましたが、兵力の違いで敗戦しました。

島津家当主・島津義久は戦意を喪失して剃髪、秀吉に降伏しました。

徹底抗戦を主張した義弘も兄・義久の説得で自分の息子・島津久保を人質として差し出し、降伏。

島津家は豊臣家の配下となり、義弘は秀吉から大隅国の所領を安堵されて、島津義久と同格の大名として扱われました。

義弘が、兄・義久から正式に家督を譲られて第17代当主になったかについては諸説ありますが、当時彼が実質上島津家を率いていたようです。

豊臣政権下での活躍と秀吉の死の影響

義弘率いる島津は、秀吉の元に下った後には文禄の役(1592年~)、慶長の役(1597年~)の朝鮮出兵でも活躍しています。

3万の兵を7千で撃退する強さに、朝鮮や明の軍から「鬼石曼子グイシーマンズ」つまり「鬼島津」と恐れられました。

報償としてのちに5万石の加増を受けた義弘ですが、彼の地では息子の久保が病死しています。

1599年、義弘は剃髪。

島津家の後継者は義弘の3男・島津忠恒ただつねとなりました。

前年に亡くなった秀吉の後継者問題で豊臣政権内部が対立すると、島津家内も親豊臣と反豊臣に分裂したようです。

傍観した西軍・島津義弘の関ヶ原

1600年に徳川家康が会津征伐に出征する時、伏見城への援軍要請を受けた義弘は、軍勢を率いて伏見城馳せ参じたにもかかわらず、伏見城に入場を拒否されました。

結果、4万もの西軍の中で孤立した義弘は、そのせいで関ヶ原の戦いでは西軍につくことを決めたといわれます。

反豊臣の兄・義久の本国からは同意が得られず、義弘は僅かな手勢で関ヶ原の戦いへと参戦します。

そんな義弘は、西軍を率いる石田三成らに軽視され、前哨戦では隊を見捨てられ、軍議でも戦略案を採用されません。

そこで義弘の島津隊は、関ヶ原の本戦では動かず傍観

三成からの出陣要請にも無礼な使者の態度に激怒して追い返しています。

島津以外の有力武将にも傍観、寝返りが相次ぎ、西軍が短時間で総崩れとなると、島津隊300人(1000人、など諸説あり)は東軍に包囲され、孤立する危機に陥りました。

しかし、敵中突破を敢行した島津隊は関ヶ原から撤退に成功しています。

関ヶ原の戦い後の島津、義弘の死

東軍勝利の戦後、義弘は徳川家康に恭順の意を示し、桜島にて蟄居。

徳川家康が送り込んだ島津への討伐軍3万は、関ヶ原に出ていなかった無傷の島津の主力兵を前にして撤退しています。

島津家は1602年には赦免され、西軍についた大名として唯一、本領安堵(持っている領土の所有権を認めること)されました。

隠居していた島津義弘は、平松城から加治木館へと移って余生を過ごし、1619年にその生涯を閉じました。

 

関ヶ原の戦いで敢行した「島津の退き口(敵中突破)」とは?

関ヶ原の戦いで東軍に取り囲まれ、退路を断たれた残り300名の島津隊が、大きな犠牲を払いながら敢行した撤退作戦のことです。

関ヶ原で包囲されるピンチに切腹も覚悟した義弘でしたが、実の子供のように育てた甥・島津豊久とよひさの説得によって、義弘自身が生きて国に帰ることを決心したのです。

心を決め、一丸となった島津隊は旗指物はたさしもの合印あいいんなどを全て捨て、東軍の隙を突いて駆け抜けます。

数は少なくても、死兵(死にものぐるいとなって戦う兵)となった彼らに怖いものはありません。

福島正則隊を突破し、徳川家康本隊までが正面衝突をたじろぐほどの勢いで敵中突破したのです。

追撃してきた東軍の井伊・松平隊に対して島津隊は「捨てがまりという壮絶な戦法を用いました。

道々に残された少数の島津の決死兵が、東軍と戦って死ぬまで時を稼ぎ、主君・義弘を先へと逃がすのです。

彼らが全滅すれば、次の足止め隊を、そしてまた次、という具合です。

主君・義弘を生かすため、甥の猛将・豊久や家老たちは喜んで命を捨てる「捨て奸」となりました。

義弘が普段から家臣たちと築いていた厚い信頼関係があってこその決死の作戦。

大きな犠牲を払いながらも、義弘は関ヶ原から大隅の富隈城とみくまじょうに到着できました。

そのとき共に帰還した者の数はたったの70~80名ほどだったそうです。

 

島津義弘の墓所

平素より家臣を大事にしていた義弘は、自分の死に際して殉死することを禁じていました。

それでも彼が亡くなった時、13名の家臣が殉死したそうです。

福昌寺跡島津家墓地の宝篋印塔

福昌寺は、かつては曹洞宗の大寺で、薩摩藩主島津氏の菩提寺でした。

廃仏毀釈によって1869年に廃寺となり、歴代の島津家当主とその家族が眠る墓所だけが残っています。

墓地には島津家第6代の師久もろひさ(薩摩)、氏久うじひさ(大隅)から、第28代斉彬なりあきらまでの墓があります。

<玉龍山 福昌寺跡 島津家墓地:鹿児島県鹿児島市24>

 

きょうのまとめ

今回は、九州の戦国武将を語るときに欠かすことのできない島津家次男・島津義弘をご紹介しました。

島津義弘とは

① 島津家の九州での勢力拡大に活躍し、生涯数多くの戦を戦い抜いた猛将

② 家臣たちに厚く信頼され、関ヶ原の戦いで敵中突破を成功させた人物

③ 豊臣秀吉も徳川家康も一目置かざるを得なかった九州の実力者

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku