渋沢喜作とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期、将軍・徳川慶喜の重臣となり、戊辰戦争でも活躍した

渋沢喜作しぶさわきさく

維新後は渋沢商店を開き、米や生糸の流通業を営みました。

日本資本主義の父・渋沢栄一の従兄であるこの人物。

大河ドラマ『青天を衝け』では高吉健吾さんが演じ、栄一の相棒として注目株となっています。

史実でも、栄一に負けじとおもしろい逸話をたくさん残しているんですよ!

渋沢喜作とはいったいどんな人物だったのか、その生涯に迫りましょう。
 

渋沢喜作はどんな人?

プロフィール
渋沢喜作

渋沢喜作
出典:Wikipedia

  • 出身地:武蔵国榛沢郡血洗島はんざわぐんちあらいじま村(現・埼玉県深谷市)
  • 生年月日:1838年7月30日
  • 死亡年月日:1912年8月30日(享年74歳)
  • 渋沢栄一の従兄。徳川慶喜の重臣となり、戊辰戦争では彰義隊の隊長を務めた。維新後は「渋沢商店」を創設し、米や生糸の流通を担う。

 

渋沢喜作 年表

年表

西暦(年齢)

1838年(1歳)武蔵国榛沢郡血洗島はんざわぐんちあらいじま村(現・埼玉県深谷市)にて、渋沢文左衛門の長男として生まれる。

1863年(26歳)江戸に上り、渋沢栄一らと共に尊王攘夷活動を行う。

1864年(27歳)一橋慶喜の家臣となる。

1867年(30歳)慶喜の将軍就任に伴い、奥右筆に任じられる。

1868年(31歳)戊辰戦争が勃発。旧幕臣を束ねて「彰義隊」を結成し、新政府軍と戦う。

1869年(32歳)戊辰戦争終結直前に降伏し、投獄される。

1872年(35歳)赦免となる。渋沢栄一の仲介により大蔵省へ入省。養蚕事業展開のため、ヨーロッパを視察する。

1873年(36歳)渋沢栄一の推薦で小野組糸店へ出仕。

1875年(38歳)渋沢商店を開業。米の流通、委託販売、運送保険制度の創設を行う。

1878年(41歳)渋沢栄一とともに東京商法会議所を設立する。

1880年(43歳)渋沢商店に生糸部を設け、生糸の輸出・委託販売を行う。

1883年(46歳)長男・作太郎に家督を相続。渋沢商店を譲る。

1886年(49歳)東京深川にて、深川正米市場を創設。市場の初代理事長となる。

1896年(59歳)東京商品取引所理事長に就任。

1897年(60歳)渋沢栄一とともに、十勝開墾合資会社を設立。初代社長となる。

1903年(66歳)すべての公職を辞し、実業家を引退。東京白金台にて余生を過ごす。

1912年(75歳)死没。

 

幼少期・渋沢栄一とともに学ぶ

1838年、渋沢喜作は武蔵国榛沢郡血洗島はんざわぐんちあらいじま村(現・埼玉県深谷市)にて、豪農・渋沢文左衛門の長男として生まれます。

喜作は渋沢栄一の2歳違いの従兄にあたり、幼少から常に行動を共にしていたという話。

これまた親戚関係にある尾高惇忠あつただから、そろって漢学を学んでいました。

青年期には村民から頼りにされ、村でなにか問題が起きても、栄一と喜作が立ち会えばすぐ解決すると評判だったといいます。

26歳ごろから、喜作は栄一や尾高惇忠とともに尊王攘夷活動を画策。

当時、喜作らが考えていた攘夷活動は

・高崎城の乗っ取り

・横浜外国人居留地の焼き討ち

など、なかなかに過激なものでした。

惇忠の弟・長七郎が止めに入ったおかげで実行には移されませんでしたが、もし行っていたら、幕臣となる前に罪人として捕らえられていたかも…。

 

一橋慶喜の家臣となる

徳川慶喜

1863年、江戸での攘夷活動を諦めた喜作は、栄一と共に京都へ向かいます。

ふたりは京都でも攘夷活動を行おうと考えていました。

しかしこのころ、「八月十八日の政変」で京都の攘夷派は根こそぎ排除されており、計画は頓挫してしまいます。

こうして路頭に迷っているところ、一橋家家臣・平岡円四郎の誘いがあり、喜作と栄一は一橋家に仕える身に。

円四郎と喜作らは、江戸で攘夷活動を行っていたころから面識があり、彼もまたふたりの才覚を見抜いていたのです。

…と、ここまでは見事なまでにニコイチで行動している喜作と栄一ですが、このあと初めて道が分かれることとなります。

1867年、栄一はパリ万博の出展に伴ってヨーロッパへ。

一方で喜作は、徳川慶喜の将軍就任に伴い、奥右筆の役に任じられることとなるのです。

奥右筆というのは幕府の機密文書を扱う事務職で、朝廷との交渉が密になっていた幕末において、非常に重要な役割でした。

のちの功績から、栄一ばかりが取り沙汰されていますが、喜作も負けないぐらいの才能の持ち主だったことがわかりますね。

 

戊辰戦争で彰義隊の隊長に

1868年、喜作が幕府の要職に列せられるや否や、時局は幕府vs新政府の戊辰戦争へ突入します。

鳥羽伏見の戦いを経て、徳川慶喜が江戸へ避難すると、喜作はこれを警護するべく、旧幕臣を集めた「彰義隊」を結成。

隊員からの投票で隊長を務めることとなります。

しかし、結成直後、副隊長・天野八郎との衝突があり、喜作は彰義隊を脱退することに。

自身に伴って彰義隊を辞した幕臣を連れ、喜作は新たに振武軍しんぶぐんを結成しますが、新政府側についた諸藩の猛攻を受け、隊は散り散りになってしまいます。

その後、江戸にて彰義隊と振武軍の残党を集め、「新彰義隊」を結成。

喜作は隊長としてこれを率い、榎本武揚えのもとたけあきの艦隊に合流して北海道へと向かいます。

戊辰戦争は政府軍の勢いに押され、途中で逃げ出す幕臣も多くいましたが、喜作は最終局面の函館戦争まで戦ったのです。

最後は政府軍に降伏し、投獄されることに。

帰国した栄一も、喜作が戦犯として捕らえられている状況には驚いたでしょうね。
 

明治政府へ出仕

1872年になると、喜作は戊辰戦争の罪を赦免され、社会復帰することになります。

このころ、栄一はすでに大蔵省にて働いており、喜作もその仲介を得て、大蔵省で勧業事務を任されることとなりました。

入省の時期を考えると、喜作は栄一の部下。

栄一
喜作は生来負けず嫌いな性格で、不服そうに見える部分もあった

と、のちに栄一は語っています。

そして、投獄されていたぶんの遅れを一刻も早く取り戻したい喜作に対し、栄一はヨーロッパの視察を勧めました。

同年、喜作は栄一の政府への働きかけもあり、養蚕業の調査という名目で、ヨーロッパへ向かうことを許されます。

 

渋沢商店を創設、実業家となる

1873年に喜作が帰国すると、栄一はすでに大蔵省を辞していました。

喜作もこれに伴い

「栄一がいない政府なんて、おもしろくない」

と、大蔵省を後にします。

このあと、これもまた栄一の仲介で、小野組糸店へ務めることとなりますが、なんとその翌年に小野組が破綻。

次は何をしようかと考えあぐねていたところ、栄一が提案したのが米と生糸の流通業でした。

栄一が米と生糸の流通を勧めた理由は?

明治期に入ると米を納める年貢の制度はなくなり、人々は米の扱いを持て余していました。

その流通を率先して整備すればきっと重宝されると踏み、栄一はこれを喜作に勧めたのです。

また、生糸は当時、日本の輸出物では一番需要がありました。

その流通を担えば、それもまた人々から喜ばれると栄一は考えたわけですね。

こうして1875年、渋沢喜作は米や生糸の流通、委託販売を担う「渋沢商店」を創設するにいたります。

喜作の度重なる失敗

栄一の勧めで渋沢商店を営み始めた喜作でしたが、実のところ、彼はこの商売で何度となく失敗を重ねることとなります。

当時は米相場という、米を対象にした株取引のような仕組みがありました。

そして喜作には、コツコツ稼ぐよりも一発逆転を狙う、ギャンブラーのような気質があったのだとか。

案の定、喜作は米相場にハマってしまい、あるとき大損をしてしまいます。

その際、10万ほどの借金を背負い、栄一が債務整理をしたという話。

明治時代は1円の価値が、現在の4千円ほどという話もありますから、喜作の借金は単純計算で4億円ほどあったことになります。

喜作もすごいけど、そんな額の面倒が見られる栄一もすごい…。

このとき、

「米相場にはもう二度と手を出さない!」

と喜作は約束したといいますが、そこでやめられないのもまたギャンブラー。

今度は生糸の先物取引に手を出し、借金70万を背負うことになります。

…もう計算するのも恐ろしい。

このときもまた、栄一が債務整理をしていますが、その際、喜作にこんな条件を突きつけます。

「生糸や米を使った商売には今後一切関与しない」

このころ、渋沢商店はすでに長男の作太郎に譲られていました。

喜作はそれでも経営に関わり続けていたのですが、栄一からの勧告を受け、1890年以降、経営から一切の手を引くのです。

その後、渋沢商店は作太郎や三男の義一が栄一の指導を受けながら切り盛りし、堅実に営まれていったといいます。

 

その他、実業界での活動

渋沢栄一が生涯、500以上の企業の運営に携わったことは有名ですよね。

喜作も栄一の相棒というだけあり、渋沢商店以外にも、たくさんの企業設立に関わっています。

・澁澤倉庫

・東京商法会議所

・東京人造肥料会社

・北海道麻株式会社

・十勝開墾合資会社

などなど。

ほとんどが栄一とともに起こした事業です。

生来のギャンブラー気質から迷惑をかけることはあっても、やはり栄一にとっては頼れるパートナーだったのですね。
 

きょうのまとめ

幕末から明治にかけ、生涯のほとんどを渋沢栄一とともに駆け抜けた渋沢喜作。

栄一の生涯には多くの偉人が関わっていますが、喜作ほど深く関わった人物はなかなかいないでしょう。

商売で失敗したときにはいつも栄一が助けており、そこにもまた深い絆を感じさせられます。

最後に今回のまとめです。

① 渋沢喜作は渋沢栄一の従兄。幕末期の尊王攘夷活動に勤しむなか、ふたりそろって徳川慶喜の家臣に取り立てられる。

② 栄一がヨーロッパ視察をしているあいだ、喜作は幕府の重臣となる。戊辰戦争では最終局面まで戦い、終結とともに投獄された。

③ 維新後は栄一の勧めで渋沢商店を創設。米と生糸の流通を担う。そのほか、栄一とともに多数の企業設立に立ち会った。

何か挑戦に踏み切ろうというとき、行動を共にしてくれる仲間がいることは心強いものです。

渋沢栄一にとって喜作の存在は、そういった心の支えの部分を担っていたのかもしれません。

 
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