新選組メンバー芹沢鴨とはどんな人物?【完全版まとめ】

 

新選組初代筆頭局長の芹沢鴨せりざわかもは、

トレードマークの「尽忠報国之士芹沢鴨」と書かれた鉄扇をいつも持ち歩いていたそうです。

ドラマや小説の世界では常に新選組のヒール役として知られる彼は、

どんな人物だったのでしょうか。

 

芹沢鴨はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:常陸国行方郡(現茨城県行方市)*諸説あり
  • 生年月日:1832年?
  • 死亡年月日:1863年9月16日(享年32歳/生年1832年として)
  • 新選組での役職:初代筆頭局長
  • 剣の流派: 神道無念流免許皆伝
  • 愛刀:備後三原守家正家びんごみはらのかみけまさいえ
  • 墓:京都市中京区仏光寺通北上壬生寺
  • 水戸天狗党の生き残りとして尊皇攘夷を志した。新選組を創設し初代筆頭局長となるが、行きすぎた素行が問題となり、新選組によって暗殺された

 

芹沢鴨 年表

年表

西暦(年齢)

1832年(1歳)常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)にて誕生(諸説あり)

1861年(30歳)攘夷決行のための強引な資金調達活動のために捕縛され入牢

1863年(32歳)出獄を許可される、浪士組に参加、
近藤勇らと共に壬生浪士組のちの新選組を創設、自身の問題行動が原因で新選組メンバーに粛清される

 

芹沢鴨の生涯

芹沢は

丈の高いでっぷりとした人物で、色は白く、目は小さい方でしたが、

良く酒を飲み、朝から酒の香りがして、まず酔ってないことはなかった。

34、5歳くらいで、両手を懐へ入れて、隊士をぞろぞろつれて歩いているところなどはなかなか

な人物だったそうです。

死刑を待つ天狗党の一員だった

常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)の水戸藩上席郷士(士分)・芹沢家の出だと言われていました。

近年それが別人だという説が浮上し、明確ではありません。

のち多賀郡松井村(現北茨城市中郷松井)の神官である下村祐斎の婿養子となり、下村嗣司と称しました。

ただし、この記事では芹沢鴨の名で統一します。

水戸勤王派の武田耕雲斎に学び、天狗党(旧玉造党)の一員として活動した尊皇攘夷の思いの強い人物だったようです。

しかし、強引な資金集めなどの活動が幕府や水戸藩内の反対勢力に問題視され、藩は天狗党を弾圧。

1861年4月に芹沢や天狗党幹部は献金強要の罪で死刑が決定します。

しかし、情勢が変わって翌年12月に大赦の令によって出獄となりました。

芹沢鴨を名乗るのはこれ以降です。

新選組初代筆頭局長になった男

1863年2月5日、清河八郎発案の将軍警固のための浪士組に参加して上洛。

しかし、目的を反古にして浪士組を朝廷の直属にしてしまった清河八郎に反対して脱退します。

近藤勇を中心とする試衛館一派と共に京都に残留しました。

のち、残留組で会津藩の「御預かり」として「壬生浪士組」を結成。

壬生村の八木家を屯所(後に前川家と南部家にも寄宿)としました。

芹沢鴨が筆頭局長に、近藤勇と芹沢派の新見錦にいみにしきの2人が局長となりました。

組織名も「新選組」となり活動も軌道に乗りつつありましたが、芹沢の従来の酒癖の悪さや、商家への強引な金策要求などの行為が目に余るようになります。

そして1863年9月16日(一説には18日)夜、会津藩から密命を受けた近藤派の新選組メンバーによって粛清されてしまいました。

実は乱暴狼藉は言いがかりで、真の暗殺理由は、

「水戸国学、天狗党の強烈な尊王攘夷思想を持つ芹沢を危険視したから」

という説もあります。

辞世の句は

雪霜に ほどよく色の さきがけて 散りても後に 匂う梅が香

です。

 

印象的なエピソード

敵にしたくない男・芹沢鴨

新選組の結成当時から死ぬまで揉め事の尽きなかった芹沢の1863年を見てみましょう。

2月

浪士隊上洛の途上、近藤勇のミスで宿所がなかったことに激昂。

児玉郡本庄宿(現埼玉県本庄市)の路上で大たき火を焚いた【本庄宿かがり火事件】があります。

6月

新選組に対して道を譲らない力士の態度に端を発した【大坂力士との乱闘事件】、

酒席で泥酔して大暴れし、一方的に店主に7日間の営業停止を申し付けた【島原角屋での暴挙】も起こしました。

9月

自分になびかない吉田屋の芸妓小寅に立腹。

店の主人を脅し、小寅と付き添いの芸妓に罰として二人を断髪させた【吉田屋の芸妓断髪事件】などの無茶な行為もありました。

そうかと思うと、以下のような一面もあります。

・会津藩主松平容保まつだいらかたもりとの謁見用に八木家から借りた紋付きの家紋が、仲間全員同じになるのも一向に気にせず笑っていた

・八木家から拝借した火鉢に刀傷をつけて返却した際、傷を問いただされると頭を搔いて逃げた

・八木家の娘が夭折した際の葬儀では、近藤と共に進んで葬儀を手伝った

その際、暇つぶしに面白い絵を描いて子供たちを喜ばしてやったりもしました。

・八月十八日の政変では、出動した壬生浪士組の存在を知らない会津藩士が、芹沢たち隊士を槍で脅して通さず、押し問答となりました。

しかし、芹沢は目の前の槍先を鉄扇であおぎつつ、笑顔で朗朗と「悪口雑言」をまくし立てた。

のちに駆けつけた会津藩の軍奉行によって芹沢と壬生浪士組は通行を許されました。

芹沢は、敵に回せば厄介で、味方にすれば頼もしい豪傑だったのです。

芹沢鴨暗殺事件

芹沢暗殺の時は1863年9月16日夜(一説には18日)にやってきました。

新選組は島原の角屋で芸妓総揚の宴会を開催。

壬生の屯所である八木家へ戻った後も宴会を続け、すっかり泥酔した芹沢鴨、平山五郎、平間重助はそれぞれの愛人やなじみである女たちと共に眠ってしまいました。

大雨の深夜、突然、数人の男たちが芹沢たちの寝ている部屋に飛び込み、彼らに斬りつけます。

驚き飛び起きた芹沢は刀を取ることも叶わず、裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に逃げ込みますが、八木家の息子の文机につまずいて転び、そこを刺されて絶命しました。

一緒にいた平山、芹沢と同衾していた愛人のお梅も首を切られ惨殺。

平間や他の女たちは逃れて姿を消しました。

襲撃は土方歳三を中心とした新選組メンバーによるものでした。

角屋での宴会も、屯所での飲み直しも、全て近藤派による芹沢暗殺計画の一部だったのです。

八木家の人々は土方がその夜に再三芹沢たちの様子を窺っていたこと、暗殺現場に土方、沖田総司などがいたことに気付いていました。

そのため土方が事件直後に「着替えて現場に戻り、心配を装っていた」ことも知っていたのです。

隊の者が暗殺者の手口の鮮やかさを

「芹沢先生を殺して証拠も残さず逃げたのは敵ながら天晴れだ」

などと褒めるのを聞いて、恐ろしく思いながらも笑いを抑えられなかったとか。

あくまで表向きは長州藩の仕業とされた芹沢暗殺事件。

2日後、芹沢と平山の葬儀が盛大に執り行われました。

 

きょうのまとめ

芹沢鴨についていかがでしたでしょうか。

芹沢鴨とは?

簡単にまとめると

① 何者をも恐れない豪傑

② 持て余すエネルギーを激昂、泥酔で発散させるしかなかった孤独なリーダー

③ 結果的に初期新選組の汚れ役を引き受け、殺された筆頭局長

と言えるのではないでしょうか。

その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku