サバサバだけどシャイ?清少納言の性格

 

『枕草子』の著者、清少納言せいしょうなごんの性格のイメージは、知的で勝ち気。

一般的には、宮中の貴公子を相手に機転の利いた応酬をする、

明るくてさっぱり系の女性として知られているようです。

 

清少納言の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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シャイな一面もあった清少納言

清少納言

清少納言(菊池容斎・画、明治時代
出典:Wikipedia

文章では強気な清少納言も、性格には繊細な部分もあったんです。

宮仕え初日の清少納言は、右も左もよくわからない宮廷で、いきなりピンチの半泣き状態。

主人である定子の元へ出仕しても物陰に隠れていたのだとか。

当時の彼女は29歳で、子供ではありません。

しかし、それほどまでに緊張し自分に自信がなかったのです。

「隠れてないで出てきなさい」

中宮ちゅうぐう(天皇の后の最高位)定子は少納言より10歳も年下でしたが、彼女に優しく語りかけ、絵を見せるなどします。

うつむいてばかりいた清少納言が思いきって定子の顔を見上げると、定子は

「これほど美しい方がこの世にいらっしゃるとは」

というほどの美貌だったそうです。

清少納言のシャイで素直なところは、その後の彼女の活躍ぶりからは想像もできないほど初々しいですね。

 

清少納言の容姿

清少納言の肖像画などは残されていません。

私たちはわずかな資料から彼女の容姿を想像するのみです。

実は癖毛です

平安女性の美人の第一条件は「まっすぐに伸びた黒く美しい髪の毛」

でも、清少納言はくせ毛、つまり天然パーマでした。

この時代、これはかなりのコンプレックスだったようです。

先述の彼女が宮仕えを始めて間もない頃、主である定子を前にして清少納言は恐縮していました。

 「明かりのせいで、私の髪の節が昼間より良く見えてしまって恥ずかしい・・・」

 「髪で顔を隠そうにも、そもそも私の髪は人に見られたら恥ずかしいのに・・・」

 髪の毛への劣等感は相当なものでした。

また、『枕草子』の別の章段では、

「髪が所々ちぢれていて、自分の毛ではないし・・・」

と書いています。

彼女は髪に自信がなく、付け毛をしていたんですね。

当時、人毛や牛のしっぽの毛を用いた「かもじ」と呼ばれるエクステンションがありました。

ブスというのは本当?

百人一首などに描かれた清少納言の絵姿は、大抵横向きに描かれています。

これは、不美人を描くときに使う方法なのだそう。

彼女は、『枕草子』の中で自分自身の容姿に自信がないと自虐っぽく漏らしています。

彼女の何でもあけすけに話す明るい性格のせいで、不美人のイメージを与えてしまったのでしょう。

その真偽はわかりませんが、彼女の名誉のために言っておくと、男性にモテたことは確かです。

 

清少納言の恋

そう、清少納言はモテました。

「女は、家に引きこもってばかりじゃなくて、外にでていって働かなきゃ」

と言い、自ら平安朝のキャリアウーマンを実践していた彼女。

当然仕事柄、多くの男性と言葉を交わす機会があったのです。

てへへ、実はバツイチ子持ちです

専業主婦はダメよ、なんて言ってる清少納言本人が、実は宮仕えの前は専業主婦だったんです! 

自分のことを「見知らぬ里人心地」(世間知らずの主婦感覚)だったとはっきり告白しています。

10代後半に橘則光たちばなののりみつと結婚、982年に息子を設けますが、まもなくその結婚を解消。

彼女の漢学などの教養面が則光より優れていたことからくる性格のズレが原因だと言われています。

でも、彼らは決して憎み合って別れていません。

その後宮廷で再会する元夫と親しく話を交わす場面がいくつも出てきます。

元カレたち

清少納言は宮廷の貴公子たちから次々と迫られています。

藤原道長からも和歌を贈られ、プレイボーイで宮廷の女性のあこがれの的・藤原斉信ただのぶも清少納言に男女の関係を迫っていました。

『後拾遺和歌集』によると、風流なプレイボーイとして知られる藤原実方さねかたとは

「人には知らせで絶えぬ仲(人知れず長く続いている関係)」だったそうです。

また、百人一首に採られた清少納言の和歌

をこめて 鳥の空音そらねはかるともよに逢坂あふさかせきはゆるさじ

(夜なのに夜明けのニワトリの声のまねをして関の門をあけようとしたって、あなたと私の間の関は決して開かないわよ!)

は、朝廷一仕事のデキるセレブ男・藤原行成とのちょっとふざけた恋の駆け引きの中から生まれた機知あふれる歌。

この二人の興味深いやり取りは『枕草子』に登場します。

そんな清少納言ですが、不思議と男女関係が派手だとか、魔性の女っぽいイメージはありません。

それも彼女のからっとした明るい魅力が、情愛のドロドロを感じさせないからでしょうね。

再婚

1000年に中宮定子が難産のため亡くなると、清少納言は宮仕えを辞めました。

のちに藤原棟世むねよという男性と再婚したようです。

そして彼女の娘・小馬命婦こまのみょうぶをもうけたということです。

おわりに

私たちが知ることの出来る清少納言のことは、実はほとんど『枕草子』からだけです。

でも、そんな少ない資料からも、彼女の憎めない性格が見えてくるものですね。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku