清少納言とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「春はあけぼの」の『枕草子』でおなじみの

せい少納言しょうなごん

こんなに有名人ですけど、平安時代の女性のプライベートに関する記録は殆どないのです。

残された資料から、彼女がどんな人物だったかを辿ってみましょう。

清少納言はどんな人?

プロフィール
清少納言

清少納言(菊池容斎・画、明治時代
出典:Wikipedia

  • 出身地:未詳
  • 生年月日:966年?
  • 死亡年月日:1025年?(享年59歳?)
  • 鋭い感性が光る日本を代表する随筆『 枕草子 』の著者。セレブ貴公子に負けない機転と教養でサバサバ明るい平安朝キャリアウーマン。

清少納言 年表

年表

西暦(年齢)*年表・年齢は生年966年説に従う。正確な生没年は未詳。

966年(1歳)清少納言誕生

981年(15歳)陸奥守むつのかみ橘則光たちばなのりみつと結婚

991年(25歳)橘則光と離婚

993年(27歳)一条天皇の后定子の教育係として出仕

995年(29歳)定子の父・藤原道隆みちたか没する。道隆の弟・道長が権力を持ち始める

1000年(34歳)中宮定子崩御。清少納言は宮仕えを辞する。再婚し、夫藤原棟世と共に摂津国へ向かう。このころには『枕草子』は完成していたとみられる

1025年(59歳)このころに死没していたと考えられる

 

清少納言とは

出身や生没年は未詳。

966年ごろに誕生し、1025年ごろに没したとも言われており、ここではその生没年を採用します。

名前

清少納言というのは本名ではありません

「清原家」の身内に「少納言」という位の人がいたことにちなんでそう呼びました。

みなさんは清少納言を「清少 納言」と呼んでいませんか? 

「清原家の少納言」ならば、本来は「清 少納言」と呼ぶのが正しい読み方となるのがわかると思います。

また、本名は「諾子なぎこ」だったとも言われますが、確証はありません。

家柄と教養

父は梨壺という場所に置かれた和歌所で編者をしていた「梨壺の五人」の一人、有名歌人の清原元輔きよはらのもとすけ

また、曾祖父は『古今和歌集』の代表的歌人・清原深養父ふかやぶです。

清少納言を含めた、父、曾祖父三代の歌が『小倉百人一首』に選ばれています。

清原氏は代々文化人として政治、学問に貢献した家柄。

清少納言は娘時代から漢学を学ぶなど、当時の女性としての水準をはるかに超える教養の持ち主でした。

結婚

橘則光たちばなののりみつと結婚し、二人の間にはのち歌人となる息子の橘則長のりなががいました。

二人の結婚は10年ほど続き、のち離婚。

その原因は清少納言の漢詩の優れた才能など、教養の部分で橘則光と合わなかったからではないかと言われています。

清少納言が定子に出仕するようになると、宮中で則光と再会しました。

しかし、二人の仲は険悪ではなく、「妹背いもせの仲」として兄妹のように交流したと言われています。

宮廷への出仕を辞したのち、清少納言は親子ほど年の離れた藤原棟世むねよと再婚。

そして女流歌人となる子馬命婦こまのみょうぶを産みます。

職業「清少納言」とは?

平安時代を代表する文化人として紫式部と並んで有名な清少納言ですが、

彼女が朝廷で活躍したのはたったの7年

とても凝縮された時間でした。

彼女の仕事は定子付きの女房です。

政務や朝廷の行事などの必要事項を定子に伝えるために、それらを担当する宮廷の男たちとの取り次ぎをするのが主な役目でした。

そんな業務の中で宮中のセレブ貴公子たちと気の利いた会話をして、朝廷の中での定子サロンに耳目を集めることも女房たちの仕事。

その点、清少納言は才気煥発で、得意の漢詩の知識を駆使して男たちと対等に機知の飛んだ応酬をします。

彼女こそ定子サロンのエース女房でした。

清少納言の歌人としての腕前

偉大な歌人である曾祖父・清原深養父と父・清原元輔のために、和歌はさすがの清少納言にもかなりのプレッシャーでした。

『枕草子』の中には、同様に有名歌人を父親に持った貴公子・藤原行成と、「苦手な和歌」について意気投合するほど。

主人である定子から歌を詠まなくても良い、というお許しを得たほど(『枕草子』95段)彼女は本気で和歌を避けていました。

ただし、彼女は中古三十六歌仙ちゅうこさんじゅうろっかせんに選ばれ、勅撰集、百人一首にも入首しているほどの和歌の実力の持ち主。

それでもさすがの腕前です。

『枕草子』の後の清少納言

少納言は主・定子を失った後は宮から下がり、普通の生活をしています。

暮らしは苦しく、晩年の頃は食うにも困るほど不遇だったという話しがありますが、真偽は定かではありません。

一方、宮仕えを終えたあとで藤原棟世むねよと結婚し、夫から裕福な生活を提供されたとも言われます。

晩年には、父親の清原元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住みました。

藤原公任きんとう、中宮彰子付の女房の和泉式部いずみしきぶ赤染衛門あかぞめえもんなど宮廷の人々とも消息を交わしていた記録があります。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

清少納言とは、

① 教養ある家系に生まれた才女

② 少なくとも二度の結婚をし、二人の子供に恵まれた母

③ 随筆と共に和歌の才能もあった歌人の娘

④ 晩年は宮廷の文化人とも交流があった風流の人

その他にも清少納言にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku