幕末の三条実美と長州藩の関係とは?

 

三条実美さんじょうさねとみという人物の名前は知っていても、

どういった人物なのかよくご存じない方も多いかと思います。

そこで今回は、

三条実美と長州藩の関係についてご紹介したいと思います。

 

三条実美は尊王攘夷派

三条実美は明治新政府において、かなり重要なポストに就いていた人物の一人です。

天皇を助ける最高職にあたる太政大臣だいじょうだいじんや内大臣などを務めました。

太政大臣という位は、1885年に内閣制度ができたことによって廃止されています。

そもそも、実美は身分の高い公家の家に生まれています。

三条家というのは藤原北家の血筋の家柄で、五摂家ごせっけに次ぐ家格です。

五摂家:とは近衛このえ家・鷹司たかつかさ家・九条家・二条家・一条家という5つの家のことです。

いずれも藤原北家が分かれてできた家柄で、摂政・関白を務めてきました。

そんな三条家の主・父の実万さねつむは尊王攘夷派で、安政の大獄では弾圧を受けた一人でした。

そんな父の影響もあってか、実美自身も尊王攘夷派の公家として活躍していたのです。

第14代将軍の家茂いえもちに攘夷を促したり、尊王攘夷派の志士たちと交流を持っていました。

 

三条実美と長州藩のつながり

そんな三条実美は、

同じく尊王攘夷を掲げる長州藩と密接な関係を持つようになります。

大和行幸

1863年、時の孝明天皇が大和やまと(現在の奈良県)と伊勢神宮へ行幸ぎょうこう(天皇が外出すること)する計画が持ち上がりました。

ですがこの行幸は、単に孝明天皇がそれらの場所に出かけるだけというわけではありません。

それらの地に天皇が攘夷を祈願しに行くことで、幕府の地位を否定するという意味を持つものだったのです。

この計画を推し進めようとしたのはもちろん尊王攘夷派、長州藩や三条実美たちでした。

八月十八日の政変

しかし、そうこうしているうちに、京でクーデターが起こります。

当時はまだ公武合体派であった薩摩や会津などが、朝廷の中川宮朝彦ともひこ親王ら公武合体派と組み、

長州藩などの急進的な尊王攘夷派を京都から追放したのです。

この結果、長州藩は宮門の警備を解任されました。

さらに尊王攘夷派であった三条実美ら7人の公卿たちも、京都を追放されることになってしまいます。

このクーデターは、起きた日にちから八月十八日の政変と呼ばれています。

当然、計画していた大和行幸は中止となりました。

七卿落ち

こうして京都から追放されてしまった7人は、長州藩士に連れられて長州へと逃げることになります。

これを七卿しちきょう落ちといいます。

長州藩士たちに警護され、蓑笠に草鞋わらじという公家とは思えないような格好をしてまで落ちのびたそうです。

その後、しばらく長州藩でかくまわれることになります。

そして第一次長州征伐(1864年、幕府が様々な藩から軍を集めて長州を攻めたこと)の際には戦乱を避け、太宰府に移ります。

そんなとき、薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作、そして坂本龍馬らも大宰府を訪ねてきたそうです。

こうして時勢を語り合った彼らは、新しい時代を作るために突き進んでいくのでした。

 

きょうのまとめ

今回は、明治新政府の首脳の一人であった三条実美と長州藩の関係についてご紹介しました。

三条実美と長州藩は、

① 同じ尊王攘夷派として親しい関係にあった

② 孝明天皇の大和行幸計画を推し進めようとするも八月十八日の政変で追放された

③ (三条らは)長州藩士の警護で長州に逃げることができた

といえます。

こちらのサイトでは、

他にも三条実美や幕末についての記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、是非ともご覧ください!

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