三条実美と岩倉具視は、
同じ公家として一括りにされがちです。
やはりそれは、同じく明治維新を推進した西郷隆盛や坂本龍馬などの武士たちとの対比によって、
そうなるのかもしれません。
ですが三条実美と岩倉具視は、
かなり対照的な人物だったのです。
そこで今回は、そんな対照的な二人について簡単にご紹介していきます。
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名家出身の三条実美
まずは、三条実美の育ちや性格についてご紹介します。
三条実美は、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家という五つの家で、摂政や関白を排出した名家である五摂家という高貴な家柄に次ぐ名家出身です。
そのため実美は生まれながらのエリートといったところでしょうか。
また、育ちの良さからでしょうか、公家らしい温和な性格であったといわれています。
政府内の調停役なども務めていたということですから、まさしくピッタリの役どころですね。
下級の公家だった岩倉具視
そんな三条実美とは対照的に、公家とはいっても決して高位とは言えない家柄出身だったのが岩倉具視でした。
さらに、幼いころから公家らしからぬ容姿と言動だったため、周りからは浮いた存在だったようです。
しかし岩倉は持ち前の意思の強さと行動力で、次第に頭角を現していきます。
ということで、岩倉は成り上がりタイプですね。
敏腕政治家の岩倉は、明治新政府内でも実質的な権力者として活躍します。
犬猿の仲だった!?
そんな対照的な二人ですから、仲が良かったのか気になるところですよね。
どうやら二人は犬猿の仲だったようです。
和宮降嫁とは
そんな予感はしていましたが・・・。
ではなぜ、二人は犬猿の仲になったのでしょうか。
原因は和宮降嫁にあったようです。
和宮とは時の孝明天皇の妹です。
元々は有栖川宮熾仁親王と婚約していたのですが、
幕府からの要請で14代将軍の家茂に嫁ぎました。
皇女などが皇族以外の男性と結婚することを降嫁といいます。
和宮が幕府に嫁ぐことによって、朝廷と幕府のつながりができますよね。
このように、朝廷と幕府が手を結ぶことによって政局の安定を図ろうとしていたのが、岩倉具視らの公武合体派と呼ばれるグループでした。
一方、三条実美はそれに反対する勢力である尊王攘夷派。
和宮降嫁に賛成した岩倉たちを朝廷から排除しようと、関白に弾劾する文書を提出します。
その結果、実美らは岩倉たちを追い出すことに成功しました。
中岡慎太郎の仲介で和解
どうやら二人はこの事件がきっかけで、仲が悪くなったようです。
他にも実美は宮中の女性にモテていたそうですが、岩倉はモテなかったからという説もあるようです。笑
そんな二人ですが、中岡慎太郎の仲介によって和解できたということです。
中岡慎太郎は薩長だけでなく、三条実美と岩倉具視の仲までも取り持っていたのですね。
征韓論でも二人は・・・
そして明治六年には、政府内の勢力を二分する論争が起こります。
征韓論争という、武力を行使してでも韓国を開国させようとするグループとそれに反対するグループの対立です。
そして当時太政大臣を務めていた三条実美は、それらのグループの板挟みとなってしまったのです。
賛成派には西郷隆盛や板垣退助、反対派には岩倉具視らがいました。
閣議で西郷を韓国に派遣することが決まったため、岩倉と大久保利通は実美に辞表を提出します。
この出来事に動揺してしまった実美は、なんと高熱を出して倒れてしまったということです。
まさか、ここでも岩倉は実美を追い詰めるとは!
心労でしょうかね。
この頃の実美について、英国公使の夫人は「政治にはもう飽きあきした、上品な紳士」と評したといいます。
いい意味でも悪い意味でも、実美はお坊ちゃんだったのでしょうか・・・。
きょうのまとめ
今回は三条実美と岩倉具視の対照的な育ちと性格などについて、ご紹介しました。
① 三条実美は温和なお坊ちゃん育ち
② 岩倉具視はガッツの強い成り上がりタイプ
③ 二人は和宮降嫁がきっかけで犬猿の仲だったが和解した
④ 新政府樹立後、征韓論でも岩倉具視は三条実美を追い詰めた
こちらのサイトでは、他にも三条実美や岩倉具視、
幕末についてもわかりやすく書いています。
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