19世紀後半~20世紀前半にかけて活躍したイタリアの音楽家、
ジャコモ・プッチーニ。
『蝶々夫人』や『トゥーランドット』など、現在でも世界各地で上演されている有名なオペラ作品の生みの親です。
プッチーニとは一体どんな人物だったのでしょうか。
今回はその生涯や功績から、彼の人物像に迫ります。
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プッチーニはどんな人?
- 出身地:イタリア トスカーナ州 ルッカ
- 生年月日:1858年12月22日
- 死亡年月日:1924年11月29日(享年65歳)
- 作曲家。20世紀前後にかけて活躍したイタリア・オペラの代表者。
プッチーニ 年表
西暦(年齢)
1858年(0歳)イタリアのトスカーナ州にある城塞都市、ルッカで音楽一家のもとに誕生。
1872年(14歳)近所にあるサン・ミケーレ教会でオルガニストになる。
1876年(18歳)近郊の都市ピサで上演された『アイーダ』を観に行き、オペラに目覚める。
1880年(22歳)ミラノ王立音楽院に入学。オペラの作曲家を志す。
1883年(25歳)『交響的奇想曲』を発表し、音楽院を卒業。
1884年(26歳)『妖精ヴィッリ』を発表。駆け落ち事件を起こす。
1889年(31歳)2作目のオペラ作品『エドガール』を発表するも失敗に終わる。
1893年(35歳)出世作となる3作目のオペラ『マノン・レスコー』を発表し、大成功を収める。
1895年(37歳)『ラ・ボエーム』の完成。
1900年(42歳)『トスカ』の完成。
1904年(46歳)『蝶々夫人』の完成。初演は失敗に終わるも、修正を加えたことでその後大成功を収める。
1910年(52歳)『西部の娘』の完成。
1917年(59歳)『ラ・ロンディーネ』の完成。
1918年(60歳)『外套』、『ジャンニ・スキッキ』、『修道女アンジェリーカ』の完成
1924年(65歳)『トゥーランドット』の作曲中、咽頭癌により死去。
プッチーニの生涯
ここからは早速、プッチーニの生涯について、功績と共に見ていきましょう。
音楽一家の息子
1858年、イタリアのトスカーナ州にある城塞都市に誕生したプッチーニ。
彼の正式なフルネームは、ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニと言います。
彼の家系は代々音楽家として続いてきた歴史があり、その名前を全て継いだことでこのように長い名前になったのです。
ちなみにこの記事でご紹介するプッチーニは5代目の音楽家として、後に大成することになります。
5歳のときに父が死去すると、14歳のときには家業とも言える教会音楽家として、近所の教会でオルガニストとなります。
しかし少年時代のプッチーニは、特に音楽的な才能に恵まれていたわけでも、勉強熱心だったわけでもありませんでした。
そしてオルガンという楽器にもあまり興味はなかったのです。
オペラへの目覚め
そんなプッチーニ少年でしたが、同じく音楽家だった父亡き後、その弟子によって音楽教育を受ける中でオペラに興味を持ちます。
転機が訪れたのは18歳のときでした。
生まれ育ったルッカから十数キロ離れた町ピサで、オペラ『アイーダ』の上演を観に行ったのです。
これに深く感銘を受けたプッチーニは、オペラに目覚め、その道に進むことを決意しました。
そしてオペラの作曲家になるべくミラノ王立音楽院を受験し、優秀な成績で合格。
しかし元々勤勉ではなかったプッチーニの音楽院時代は、勉強よりもオペラ鑑賞に、その関心は向けられていました。
それでもこのミラノで過ごした3年間の学生時代に、彼は優秀な師とオペラ作品から大いに刺激を受けることになります。
イタリア・オペラの作曲家
卒業制作で発表した管弦楽曲『交響的奇想曲』が初演で高い評価を得たプッチーニ。
卒業後は地元ルッカの音楽院で教授になる道も開けていましたが、ミラノに留まりオペラコンクールに作品を応募することに。
応募作品『妖精ヴィッリ』は当選こそ逃しましたが、審査員の一人の目に留まり、翌年行われた初演が成功を収めます。
その後はプライベートでいくつかの問題が起きたり、2作目のオペラ作品が失敗に終わったりと困難な局面に立たされるも、
3作目の『マノン・レスコー』で大成功を収めます。
この作品が出世作となったプッチーニは、たちまち当時のイタリア・オペラを代表する作曲家として有名になりました。
その後も、
・『トスカ』
・『蝶々夫人』
・『西部の娘』
など、数々の人気作品を世に送り出します。
そして最後の作品『トゥーランドット』の制作中、咽頭癌により、ベルギーのブリュッセルで息を引き取りました。
ちなみに完成間近で頓挫してしまった遺作であるこの作品は、中国が舞台となっています。
プッチーニが遺したスケッチを基に、別の作曲家によって最後の二重唱が作曲され、無事に初演を迎えました。
プッチーニオペラの特徴
プッチーニのオペラ作品が有名になった背景には、彼が題材選びにこだわり、劇場の特質をよく理解していたことが挙げられます。
オペラが人々の娯楽となるように常に意識して作られた台本は、音楽家の独り善がりになることなく観客の心を捉えます。
そして臨場感あふれる繊細な音楽を添えることで、劇場空間を作品の世界観で満たし、観客の感情に深く入り込んだのです。
プッチーニのオペラには目立った新しさや斬新さを認めることは困難です。
しかし伝統的なイタリア・オペラの流れを汲みながら、民衆にとっての上質な娯楽としてのオペラを生み出したところに、彼の功績を見て取ることができます。
駆け落ち事件と妻の狂気
ここでは、プッチーニと女性にまつわる壮絶なエピソードをご紹介します。
ミラノ音楽院を卒業して間もなく、プッチーニは教え子だった人妻、エルヴィーラとの駆け落ち事件を起こします。
彼女には男女二人の子供がいましたが、娘の方を連れてミラノで同棲生活を開始。
その後息子も授かっています。
しかし二人が正式に夫婦になるのは、20年近く経ってエルヴィーラの夫が亡くなった後でした。
ようやく正式な夫婦になった二人でしたが、実は妻のエルヴィーラはとても嫉妬深い性格でした。
プッチーニ自身も遊び人で奔放な性格だったため自業自得な節はありますが、妻の嫉妬は一人の罪なき女性を自殺に追い込みました。
数年にわたりプッチーニ家で小間使いをしていた女性が、プッチーニとの関係を疑われて執拗に攻撃されたのです。
ありもしない事実を言いふらされた後に精神的に追い詰められた彼女は、毒を飲み自殺してしまいました。
有名な音楽家の関わるこの事件は裁判沙汰となり、当時イタリア中で注目される話題となりました。
プッチーニ本人も、小間使いの女性との関係は全くの無実だったとはいえ、彼女の残像がいつまでも消えずに作品にも表れることになったのです。
きょうのまとめ
今回は、20世紀前後に活躍した音楽家プッチーニについて、その生涯と主な功績をご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、プッチーニとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① 20世紀前後に活躍したイタリア・オペラを代表する作曲家。
② 代表曲に『マノン・レスコー』『蝶々夫人』などがある。
③ 民衆に娯楽としてのオペラを提供することを目指した。
人々の共感を誘う作品を多く発表し、多くの人気作品を遺したプッチーニ。
彼の目指した娯楽性は、現在でも多くのファンに受け入れられ、愛されて世界で上演されています。
ご興味を持たれた方は是非一度、彼の作品を鑑賞してみて下さい。
気づいたときにはその世界観に引き込まれているかもしれません。
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