天正遣欧少年使節とは?簡単に説明【完全版まとめ】

 

織田信長が本能寺の変で亡くなる少し前、事件と同じ年の1582年に

天正遣欧少年使節てんしょうけんおうしょうねんしせつがローマへと出発しました。

4人の少年を中心とした使節団は、何の目的でヨーロッパへと旅立ち、何をして帰ってきたのでしょうか? 

そして、日本に帰国した彼らのその後の運命は・・・?

 

天正遣欧少年使節とは?

プロフィール
てんしょうけんおうしょうねんしせつ

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵。
右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父
出典:Wikipedia

  • 使節団出発地:長崎港
  • 出発日:1582年1月28日
  • 使節団帰着地:長崎港
  • 帰着日:1590年6月20日
  • 長崎の神学校の生徒から選ばれた4名の少年たちを中心に使節団が結成され、日本でのキリスト教の布教の拡大とヨーロッパからの支援を求めてローマへ派遣された

 

天正遣欧少年使節関係年表

年表

西暦*日付は旧暦

1582年 1月28日使節団が長崎港を出港。2月15日マカオ到着

1583年 11月7日ゴアに到着

1584年
 7月5日ポルトガル首都・リスボンに到着
 10月23日スペイン首都・マドリードでスペイン国王フェリペ2世に歓待される

1585年 2月22日ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。4月2日シクストゥス5世の戴冠式に出席

1586年 2月25日リスボンを出発して帰路につく

1587年 4月23日インドのゴアに到着。7月日本で豊臣秀吉によるバテレン追放令が発布される

1590年 6月20日使節団が長崎に帰港

1591年 閏1月8日使節の4名は聚楽第において豊臣秀吉に謁見。西洋音楽を演奏披露する

 

ローマに派遣された天正遣欧少年使節とは

キリスト教の布教のために来日していたイエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノという宣教師がいました。

彼の勧めで九州のキリシタン大名

・大村純忠すみただ

・大友義鎮よししげ宗麟そうりん

有馬晴信ありまはるのぶ

の名代として使節団がローマへ派遣されました。

その4人の少年を中心とした日本初の公式使節団のことを「天正遣欧少年使節」と言います。

使節団の目的

宣教師・ヴァリニャーノが使節団派遣を発案したのは、2つの大きな目的のためです。

1.ローマ教皇とスペイン・ポルトガルの国王たちに日本での宣教の経済的・精神的援助を依頼すること

2.日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその偉大さを語らせて、布教に役立てること

彼は、日本での布教を成功させるためには、日本人の司祭・修道士を育成することが重要だと考えていたのです。

少年使節のメンバーたち

ローマに向かうメンバーは、将来日本における布教に活躍が期待され、長い渡航に耐えられる元気な若者でなくてはなりません。

そこで、有馬晴信が日野江ひのえ城下に建てたセミナリヨ(イエズス会の神学校)で学ぶ生徒の中から4人が選ばれました。

【少年使節】

いずれも13歳から14歳の少年です。

主席正使:伊東マンショ(大友義鎮の名代で、義鎮とは親戚だった)

正使:千々石ちぢわミゲル(大村純忠の名代であり、甥。また有馬晴信の従兄弟だった)

副使:中浦ジュリアン

副使:原マルティノ

4人の少年の年齢ははっきりとわかっていませんが、最年長が伊東マンショ、最年少が原マルティノだと言われています。

彼らの他に修道士2名、神父3名、技術習得のための留学生2名が使節団に加わっています。

使節団の旅と活動

使節団は長崎港を出港しマカオ、マラッカ、インド、喜望峰を回って2年半かけてヨーロッパへ渡りました。

航海は、難破や熱病、海賊の襲撃などの危険と隣り合わせの旅でした。

1582年2月20日に長崎港を出港した使節団は、1584年8月にポルトガルの首都・リスボンに到着しました。

彼らは当時のヨーロッパ社会に少年使節ブームを巻き起こし、日本の存在を強烈にアピール。

ローマでローマ教皇・グレゴリウス13世との掲見を実現し、ローマの市民権まで与えられたのです。

それ以外にも一行は、

・リスボン近郊でアルベルト・アウストリア枢機卿すうききょうの王宮に招かれる

・マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける

・斜塔で知られるピサの町(当時はトスカーナ大公国)で、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見

・トスカーナ大公妃主催の舞踏会に参加

・ローマの新教皇・シクストゥス5世の戴冠式たいかんしきに出席

・ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノ、キリスト教の巡礼地アッシジなどを訪問

などさまざまな体験をしました。

帰路の途上、日本で起きていたこと

豊臣秀吉

再びリスボンに戻った使節団は、1586年2月25日に帰路に就きます。

1587年途中立ち寄ったインドのゴアでは、原マルティノが流ちょうなラテン語で感謝の演説を行い、ゴアの西洋人たちを非常に驚かせました。

ところが、彼らが日本を離れている間、母国ではキリシタンを巡る状況に変化がありました。

・5月 長崎で大村純忠が死没

・6月 豊後で大友義鎮が死没

・7月 豊臣秀吉がバテレン追放令(宣教師たちの国外退去命令)を発布

少年使節を送り出した2人のキリシタン大名が亡くなり、豊臣秀吉によるキリシタンへの弾圧が始まっていたのです。

使節団の日本帰着

1590年6月20日、さまざまな知識や文化を学んだ一行は、意気揚々と家族の待つ長崎へと帰還。

出発時に13、4歳だった4少年は、22、3歳の青年へと成長しており、再会した家族が戸惑うほどだったそうです。

翌年閏1月8日、4人は京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見し、ヨーロッパ視察の報告をしました。

秀吉の前で持ち帰ったバイオリン、チェンバロ、ハープ、そしてフルートを演奏。

秀吉は4人に仕官を勧めましたが、信仰のために誰も応じることはありませんでした。

西洋楽器の他に、使節団は活版印刷機や海図なども日本への土産として持ち帰り、ヨーロッパの文明の高さを日本に伝えています。

 

4名の少年たちのその後の運命

キリシタン弾圧が始まった日本ですが、使節団の4青年は、司祭になるために天草の修練院、そしてコレジオで勉強を続行しました。

布教に身を捧げた伊東マンショ

伊東マンショの肖像画
出典:Wikipedia

彼はマカオで3年留学すると、原マルティノ、中浦ジュリアンらと共に司祭となりました。

あからさまなキリスト教の弾圧の中でも、豊前小倉を拠点に布教活動を続行。

1611年、領主・細川忠興によって小倉を追放されると、長崎のコレジオで教えるようになりましたが、1612年に当地で病死しています。

唯一棄教した千々石ミゲル

彼も他の3人の仲間と共に勉強を続けますが、やがて棄教(キリスト教信者を辞めること)してしまいました。

・ヨーロッパ滞在時に、キリスト教徒が黒人奴隷を扱う様子を見て失望した

・日本がキリスト教に乗っ取られるのではないかという危機感を抱いた

これらが棄教の理由だと考えられています。

洗礼名も棄て、千々石清左衛門と改名して大村藩に仕えましたが、棄教のせいでキリシタンから命を狙われ、仏教徒からも異端者扱いされたようです。

1632年に死没。

実は、2017年に見つかったミゲルのものらしき木棺の中に欧州製ロザリオが発見されました。

ミゲルは棄教していなかった、出土した埋葬者はミゲルの妻だ、などの説が浮上し現在も研究が続けられています。

壮絶な殉教をした中浦ジュリアン

彼は1608年に司祭となりました。

キリシタン弾圧が強くなると、博多から長崎へ移動して活動。

1614年のキリシタン追放令以降地下活動をしていましたが、1632年に小倉で捕縛され、長崎で他の7名のイエズス会司祭や修道士らとともに穴吊るしの刑に処せられました。

逆さに吊され、穴を開けたこめかみから少しずつ出血させて緩やかに死をもたらす苦しい拷問を受けても彼は棄教せず、4日目に殉教。

2007年には、ローマ教皇ベネディクト16世によって、天正遣欧少年使節の中で最初の福者ふくしゃ(カトリック教会において死後に徳や功績を認められた者に与えられる称号)となりました。

語学を生かして活動した原マルティノ

ラテン語の達人・マルティノは、司祭としての宣教活動と同時に洋書の翻訳や出版印刷事業にも貢献しています。

禁教令でキリシタンの弾圧が激しくなるとマカオへ追放され、亡くなるまでの15年間はマカオで活動。

日本に帰国することなく、1629年にマカオで死没しました。

当地の大聖堂の地下に、日本で出会った師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られています。

 

天正遣欧少年使節の4名全員が揃った像

1982年、「天正遣欧少年使節顕彰之像けんしょうのぞうが長崎県大村市の箕島みしま大橋のたもとに建立されました。

これは、1582年に使節が長崎港からローマへと旅立った年から400年を記念したものです。

大村湾を望む地に渡航前の希望にあふれた4少年の姿が再現されています。

<天正遣欧少年使節顕彰之像:長崎県大村市森園町 森園公園>

 

きょうのまとめ

天正遣欧少年使節は

① 九州のキリシタン大名の名代としてローマへ派遣された4人の少年を中心とした日本初の公式使節団のこと

② ヨーロッパで大歓迎され、さまざまな知識や文化を吸収して帰国後の日本の文化に影響を与えた

③ 4人のうち1人がローマからの帰国後に棄教、残り3人がキリスト教弾圧の中で布教活動を行った

意気揚々とローマから戻った4人の使節たち。

彼らの母国・日本が、もうキリシタンを受け入れない国なのだと知った時の彼らの絶望感は、計り知れません。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku