プラトンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

紀元前4世紀、古代ギリシャ・アテネにて活躍し、ソクラテス、アリストテレスと並ぶ哲学者として挙げられる

プラトン

彼は学園アカデメイアを創設し、後進の教育に尽力しただけでなく、数多くの著書を残すことで、その教えを後世に広く伝えていきました。

西洋哲学の源流と呼ばれているように、影響力で考えればソクラテスやアリストテレスよりも大きかったといえます。

現代社会にも根強く影響を与える思想を残したプラトンは、一体どんな人だったのでしょう。

この記事ではその生涯を辿り、プラトンの人物像に迫っていきます。

 

プラトンはどんな人?

プロフィール
プラトン

プラトン
出典:Wikipedia

  • 出身地:古代ギリシャ・アテネ
  • 生年月日:紀元前427年
  • 死亡年月日:紀元前347年(享年80歳)
  • 古代ギリシャの哲学者。学園アカデメイアの創設で後進を育て、多くの著書を残すことで西洋哲学の源流を担った。

 

プラトン 年表

年表

西暦(年齢)

前427年(1歳)古代ギリシャ・アテネにて王族の血を引く一族の息子として誕生。

前408年頃(19歳)レスリング選手として活躍。古代オリンピックにも出場したといわれる。

前407年(20歳)町で対話を行っていたソクラテスと出会い、衝撃を受ける。以降ソクラテスの弟子となる。

前399年(28歳)ソクラテスが死刑に処されたことをきっかけに政界へ不信感を抱く。

前399年~前388年(28~39歳)対話篇の執筆、学園アカデメイアの構想を温める。

前388年(39歳)イタリア・シチリア島、エジプトを訪れ、ピタゴラス派やエレア派と交流を交わすなど、知識を深めていく。

前387年(40歳)アテネの郊外に学園アカデメイアを創設。教師と生徒との問答を中心に教育を行う。

前367年(60歳)弟子のディオンに促され、シチリア島のシュラクサイへおもむく。シュラクサイを治めていたディオニュシオス2世を指導して政治改革を目指すが、悪い噂を流されてディオンが町を追放され、失敗に終わる。

前361年(66歳)ディオニュシオス2世の希望で再度シュラクサイへおもむく。しかしこのとき反対勢力によって軟禁される。その後ピタゴラス派の友人アルキュタスに助けられ、無事アテネへ帰還。

前353年(74歳)ディオンが政争に巻き込まれ暗殺され、政治への介入を諦める。

前347年(80歳)晩年は著書の執筆とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、後進の指導に精を出す中、死没する。

 

哲学者へ

プラトンが哲学者の道を歩むきっかけになったのは、20歳の頃にソクラテスと出会ったことでした。

運命を変えたソクラテスとの出会い

プラトンは当時作家志望で、自身が書き上げた脚本を片手に劇場へ向かう途中、ソクラテスが対話を行っている場面に出くわすのです。

その対話の内容に衝撃を受けたプラトンは、作家の道をすぐさま取り止め、弟子入りを申し出たといいます。

ソクラテスは後のプラトンのように学校を作るわけでもなく、目立った弟子の取り方はしていませんでしたが、このときのプラトンには光るものを感じたようです。

そしてプラトンはソクラテスから教えを乞う中で、政治家を目指すようになります。

彼はソクラテスの思想を持つ人が国のルールを作れば、きっと国はよくなっていくと考えたのでしょう。

一方政治を学ぶうちに当時の政界のずさんさも浮き彫りになり、徐々に不信感を強めていったという話もあります。

ソクラテスの死をきっかけに政界と距離を置く

政治家を目指していたプラトンが、政界と完全に距離を置くきっかけになったのは、ソクラテスに死刑の判決が言い渡されたことが原因でした。

ソクラテスは自身の思想を広めるために、町行く人と対話を行うというスタイルを取っていましたが、公の場で言いくるめられた権力者たちの反感を買い、裁判にかけられたのです。

プラトンは死刑の代替え案として、罰金刑を申し出て、自身が罰金の肩代わりをしようとしたとまでいいます。

しかしそれも受け入れられず、ソクラテスは死刑に処せられてしまうのです。

プラトンはきっと「こんなに素晴らしい思想を持った人が、どうして殺されなければならないのだ!この国はどうかしている!」のように感じたのではないでしょうか。

これ以降彼は政界と距離を置き、約10年間に渡り、著書の執筆と学園アカデメイアの構想に尽力するのです。

またこのとき哲学者が政治に介入する哲人政治の構想も、同時に練られていたといいます。

プラトンはソクラテスの思想で国を良くすることを諦めてはおらず、後進を育てることと、ゆくゆくは政治に哲学を持ち込むことに希望を見出そうとしていたのですね。

 

再び政界へ

プラトンが再び政治への介入を試みたのは、学園アカデメイアの創設から20年経った60歳の頃でした。

シチリア島シュラクサイでの政治介入

きっかけは、イタリアのシチリア島・シュラクサイに住む弟子のディオンに促されてのことです。

ディオンはシュラクサイの僭主せんしゅ(知事)ディオニュシオス2世に仕える形で、相応の権力を持つ地位を与えられていました。

そしてプラトンはディオンから、ディオニュシオス2世の指導を依頼されたのです。

プラトンはためらいこそしたものの、思わぬ形でソクラテスから受け継いだ思想を、政治に反映できるチャンスが訪れたといえます。

当初はディオニュシオス2世への指導も上手くいくかのように思われ、シュラクサイの人たちもプラトンの哲学を受け入れる姿勢を見せました。

ついにプラトンの練っていた哲人政治の構想が日の目を見るときがきた…と思いきや、プラトンの指導は結局失敗に終わってしまうのです。

反ディオン派の圧力により哲人政治の夢はついえる

ディオンはディオニュシオス2世の指導役を決めるほどの権力を持っていましたが、同時にそのことを妬む反ディオン派も、シュラクサイの政権にはいました。

彼らがディオニュシオス2世にディオンの悪い噂を吹き込んだことで、なんとディオンがシュラクサイを追い出されてしまうのです。

プラトンの哲学が政治に反映されようとしていたのは、ディオンの哲学への理解があってのものでした。

ディオニュシオス2世だけで理解するには、プラトンの哲学は難しく、このときの哲人政治は結局実現しなかったのです。

この後74歳の頃に再びプラトンはシュラクサイへ招かれますが、その際は激化した反ディオン派によって、ディオンが暗殺されてしまいます。

これを経てプラトンは、晩年を学園アカデメイアでの教育と、著書の執筆に費やすことにするのでした。

その後プラトンの育てた哲学者や著書は、長い時間をかけて後世に影響を与えるわけですが、政治に介入できていればもっと早く、国を良い方向へ導けていたのかもしれませんね。

 

きょうのまとめ

ソクラテスは理不尽な理由で死刑に処され、またプラトンの政治介入を推し進めようとしたディオンも、反対勢力によって命を落としてしまいました。

プラトンは社会の不条理によって、身近な人を失う経験を度々しています。

このような事例を踏まえても、やはりプラトンは国を変えたいという想いの元、教育や著書の執筆に打ち込んだと考えられますね。

最後に今回の内容を簡単にまとめてみましょう。

① プラトンはソクラテスの対話に衝撃を受け、哲学を志すようになった

② シチリア島のディオンによって政治への介入がなされるかと思われたが、反対勢力より失敗した

③ 学園アカデメイアでの教育、多くの著書の執筆は後世へ多大な影響を与えた

ソクラテスとの出会いがプラトンを哲学に目覚めさせ、ディオンの死が後進の育成への熱を加速させた…。

そう捉えると「人生において最も影響力を持つものは人との出会いである」という教訓が、プラトンの人生に込められていると感じます。

 

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