『アヴィニョンの娘たち』『ゲルニカ』『泣く女』など、
芸術に詳しくない人でも、
一度は目にしたことがある作品たちではないでしょうか。
これらを制作したのは、スペインが生んだ20世紀を代表する巨匠、
パブロ・ピカソ。
今回は、偉大な芸術家であるピカソが一体どんな人物だったのか、
一緒に見ていきましょう。
ピカソの作品についてはこちら
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ピカソはどんな人?
- 出身地:スペイン マラガ
- 生年月日:1881年10月25日
- 死亡年月日:1973年4月8日(享年91歳)
- スペイン出身の芸術家。キュビスムを確立したことで 20世紀の芸術界に革命を起こした。
ピカソ 年表
西暦(年齢)
1881年(0歳)スペイン南部のマラガで誕生する。画家であり美術教師だった父親の指導の下、ピカソは幼い頃から芸術の才能を発揮していく。
1895年(14歳)父親の転勤に伴い一家で芸術の中心地バルセロナに移住。美術学校に入学するも、その技術のほとんどは父から学んだ。
1897年(16歳)『科学と慈愛』がマドリードの国展で佳作、出身地マラガの展覧会で金賞を受賞。
1900年(19歳)バルセロナのカフェで出会った画家で友人のカサへマスと共にパリを訪問。
1901年(20歳)パリで自身初の正式な個展を開催。「青の時代」の始まり。
1904年(23歳)パリのモンマルトルに部屋を借り、その後パリで活動を続ける。「バラ色の時代」の始まり。
1907年(26歳)アフリカ彫刻の影響を強く受けた「アフリカ彫刻の時代」が始まる。代表作『アヴィニョンの娘たち』を制作。
1909年(28歳)「キュビスムの時代」に入る。ジョルジュ・ブラックと共にキュビスムを確立したことで、後の芸術家達に大きな影響を与えることになる。
1918年(37歳)第一次世界大戦後に「新古典主義の時代」に入る。翌年最初の結婚をする。
1925年(44歳)妻との不仲から精神状態が不安定になり、その作風は「シュルレアリスムの時代」に入る。
1937年(56歳)スペインの田舎町ゲルニカがナチス軍による空爆を受けたことをきっかけに、『ゲルニカ』を制作。この年に『泣く女』も制作。
1954年(73歳)陶芸をきっかけに知り合った女性とフランス南部で同棲を始める。その7年後に結婚する。
1973年(91歳)4月8日、急性肺水腫により自宅で死去。晩年は自宅とアトリエを行き来しながら、亡くなる直前まで制作を行っていた。
ピカソの生涯
ここではピカソについての概要を簡単にまとめてご紹介していきます。
生い立ちと少年時代
1881年10月25日、ピカソはスペイン南部に位置する町マラガで誕生しました。
画家であり美術教師だった父のもとに生まれた彼は、
幼少の頃から絵を描き始め、父の教えの元にその才能を開花させていきます。
ピカソは少年期に何度か美術学校に通いますが、
いずれも自ら中退してしまいます。
技術の多くを幼い頃から父に学んでいた彼は、
学校で習うことを無意味に思い、その卓越した才能も相まって、
以降は独学で作品を創作していくことになるのです。
そんなピカソの才能が初めて世間に証明されたのは、
彼が16歳のときでした。
教育熱心だった父が息子を入賞させるために描かせた『科学と慈愛』が、
マドリード主催の国展で佳作を受賞したのです。
その後、この作品は地元マラガの展覧会で金賞を受賞します。
これは、ピカソにとっても初めての成功体験でした。
パリへ
14歳のとき、父親の転勤に伴いバルセロナに移住していたピカソは絵を学ぶ一方で、
青年期に入るとカフェに集っては仲間たちと共に芸術や人生について語らうようになります。
そこで出会った画家、カサへマスとはその後共同でアトリエを持つほど親しくなり、
19歳のときに一緒に芸術の都パリへ訪れています。
しかし、ピカソにとっての悲劇と転機はこのパリ滞在中に訪れます。
友人カサへマスが、パリで出会った女性に失恋し自殺してしまったのです。
彼の死はピカソに重くのしかかり、その後約3年の間、
彼の作品はカサへマスの死を悼むような悲哀に満ちた作品が多く制作されています。
パリとバルセロナを行き来していたピカソは、
パリにアトリエを構え、その後の人生のほとんどをフランスで過ごします。
カサへマスの死が関係している作品たちは『青の時代』と呼ばれていますが、
生涯にわたって作風が大きく変わるピカソの作品は時期ごとに名前が付けられ、
その転換期と作風に、彼自身の心情や置かれている状況が深く関係しています。
キュビスムを確立
91年という生涯で死の直前まで精力的に制作を行っていた彼は、
油絵の他にも素描、版画、彫刻、詩など、
合わせて14万以上にも及ぶ作品を世に送り出し、
その記録はギネスにも認定されています。
それだけでもピカソがすごい芸術家であることは分かると思います。
しかし彼が偉大な芸術家であると理解するには、
彼が成した芸術界における革命を知っておく必要があります。
それが、フランスの画家ジョルジュ・ブラックと共に確立した、
「キュビスム」です。
キュビスムは遠近法などによる一つの視点からではなく、
様々な視点や角度から対象を見て、それを一つの作品の中に表す技法のことで、
「3次元を2次元に省略した描き方」とも言われます。
それは、独学で様々な表現方法によって作品を生み出してきた
ピカソだったからこそ辿り着いた、まさに革命的な技法でした。
ピカソにまつわるエピソード
ここではピカソに関するエピソードを2つご紹介していきます。
本名は長すぎてピカソも覚えていない?!
皆さん、ピカソの本名をご存知ですか。
実は彼、フルネームが長すぎるあまり、
自分で名前を省略し、パブロ・ピカソと名乗っていました。
私たちが知っている「ピカソ」は母方の苗字です。
なぜピカソの名前が長くなったのかというと、
彼の家がキリスト教の家系であること、
そしてスペイン人であることが関係しています。
キリスト教の家系に生まれた彼は、名前の他に洗礼名をもらい、
スペイン人の苗字の特徴である両親の苗字両方を受け継ぎ、
さらにそれぞれの血縁関係の名前を混ぜたことで、
ピカソの本名は長くなり、本人もあやふやになっていたそう。
ちなみにその本名が、こちらです。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ。
奔放なプレイボーイ
ピカソはその生涯で2度結婚し、3人の女性との間に4人の子供を授かっています。
この説明からも既に複雑さがご想像できると思いますが、
彼の女性関係は生涯を通してとてもややこしいものでした。
最初の妻と不仲になっても離婚せず愛人をつくり、
さらに別の女性とも関係を持って女性同士で争わせたり、
ピカソに惹かれた女性たちのほとんどは、
精神的な疲弊に追い込まれることになりました。
ちなみにピカソの代表作の一つである『泣く女』は、
真の恋人の座を巡って争う女性のひとりがモデルになっています。
きょうのまとめ
今回は20世紀を代表する芸術界の巨匠、
パブロ・ピカソの生涯をご紹介してきました。
いかがでしたか。
最後に、ピカソとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① スペイン出身で、主にフランスを拠点に活動した20世紀を代表する芸術家。
② 革命的な技法である「キュビスム」を確立し、『アヴィニョンの娘たち』、『ゲルニカ』、『泣く女』など世界的に有名な作品を遺した。
③ 絵画の他に彫刻、版画、詩など、14万以上の作品を制作し、ギネスに記録されている。
④ 生涯にわたって作風が変化し続け、時代ごとに名前が付けられいる。
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合わせてご覧いただくことで、よりピカソの人物像に迫ることができるはずです。
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