ペリクレスとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

古代ギリシア、ペルシア戦争後のアテネにおいて民主政治を完成させた人物、

ペリクレス

彼が権力者として君臨した時代は「ペリクレス時代」と呼ばれ、アテネは黄金期を迎えました。

ペリクレスとは一体どのような人物だったのでしょうか。

今回はその生涯について、主な功績やエピソードと共に見ていきましょう。

 

ペリクレスはどんな人?

プロフィール
ペリクレス

ペリクレス
出典:Wikipedia

  • 出身地:ギリシア
  • 生年月日:紀元前495年
  • 死亡年月日:紀元前429年(享年66歳)
  • ギリシアの政治家。アテネの民主政を完成させ黄金期を築く。

 

ペリクレス 年表

年表

紀元前(年齢)

495年(0歳)ギリシアで誕生。

461年(34歳)民主派の政治家としてアテナイの最高権力者となる。

451年(44歳)「ペリクレスの市民権法」を制定。

448年(49歳)ペルシアとの間に「カリアスの和約」を締結。長期にわたるペルシア戦争の終焉。

447年(48歳)パルテノン神殿の建設を開始。

446年(49歳)スパルタとの間に和約を締結する。

443年(52歳)ストラテゴス(将軍職)に就任。以後15年にわたり選出される。

432年(63歳)現在まで遺るパルテノン神殿の完成。

431年(64歳)スパルタとのペロポネソス戦争が勃発。

429年(66歳)戦争最中、ペストを患い死去。

 

ペリクレスの生涯

ここからは早速、ペリクレスの生涯やその功績についてご紹介していきます。

民主制の完成


ペリクレスが政治の表舞台で本格的に頭角を現したのは、30代も半ばを迎える頃。

当時のギリシア及びアテネでは、名門の貴族たちが支配権を独占し、その維持を目指す寡頭派と民主派との間で長期にわたる争いが続いていました。

そんな中民主派の政治家として台頭したペリクレスは、紀元前462年に寡頭派の打倒に成功。

翌年の紀元前461年には最高権力者の地位を獲得します。

ペリクレスの行った政策では、富裕市民だけでなくそれまで政治に参加する権利を持たなかった無産市民と呼ばれる一般の人々にも、広く権利を与えることになります。

例えば、

・「民会」と呼ばれる国政の最高機関を年に40回ほど開催し、その参加者を無産市民含む18歳以上の男子に制定

・民衆裁判、評議会等の役職を公平なクジによって選出

・アルコン(1年任期の指導者)及び軍の指導権を農民階級まで開放

・下層市民を考慮し、役職者への給料制を導入

この様に国政に対してペリクレスの行った改革は、従来の貴族だけに開かれた特権的なものに比べ、より多くのアテネの人々が参加できるものになりました。

それ故に、ペリクレスは古代ギリシアにおける民主政治の完成者と言われているのです。

限定的な民主制

しかしここで注意しておきたいのが、ペリクレスが完成させた民主制は現代の人々の認知するそれとは異なるということ。

政治への参加権を無産市民に広く開放したと前述しましたが、そこに女性や奴隷、そして在留する外国人は含まれていません。

特に外国人に対しては参政権だけでなく、ポリス内における不動産所有も認められていませんでした。

さらに、改革に伴って紀元前451年頃に制定した「ペリクレスの市民権法」では、「市民」というカテゴリーを細かく制定。

・両親共にアテネ市民であること

または

・アテネ人女性であること

が市民権を所有できる条件でした。

市民権に対して特に限定的な条件を付けた背景には、政策のひとつである給料制の導入が関わっています。

ペリクレスは、ペルシア戦争に備えて結ばれたデロス同盟によって得られた資金を用いて、アテネ内部の政策や海軍増強などを行っていました。

つまり、財源には限りがあったのです。

この様に、ペリクレスが完成させた民主制はアテネ内部の極めて限定的なものであったことがうかがえます。

しかしペリクレスがこのポリス内で限定的かつ徹底的に改革を行ったことで、アテネは黄金時代を迎えたのでした。

黄金期

紀元前448年、事実上の最高権力者としての地位に就いてから約15年が経った頃。

ペリクレスは長きにわたって何度も戦ってきたペルシアとの間に「カリアスの和約」を締結。

約50年の戦争に終止符を打ちます。

その後はアテネの内政に徹底し、民主政治に安定をもたらし文化事業にも着手していきました。

戦争によって破壊された古代の建築を再建し、翌年にはパルテノン神殿の再建に着工。

約15年にわたる工事の末完成した姿は、現在の私たちも目にすることができます。

また、ペリクレスはギリシアにおける三大悲劇詩人のひとりであるソフォクレスとも交友があり、文化の保護学芸の奨励にも努めました。

ギリシア悲劇の盛んな上演が行われ、市民に対して観劇手当も支給しています。

その様な中で、アテネは政治だけでなく古典文化においても全盛期を迎えたのです。

ペロポネソス戦争

紀元前443年、52歳の時にはストラテゴス(将軍職)に就任したペリクレス。

この職は当時専門職として考えられ、再任が可能な役職でした。

そして他の公職とは異なり、クジではなく民会での選挙によって選ばれます。

彼はこれ以降、約15年間この職を務めました。

この事からも、ペリクレスは当時のアテネ市民にとって望ましいリーダー像だったことがうかがえます。

しかし紀元前431年。

アテネの繁栄を望ましく思わなかったスパルタとの間に亀裂が走り、ペロポネソス戦争が勃発。

ペリクレスの軍勢は初期は優勢だったものの、市民の間にペストが流行

2年後の前429年には、戦争の最中ペリクレス自身もペストに罹り死去しました。

 

ペリクレスにまつわるエピソード


ここではペリクレスの私生活に関するひとつのエピソードを基に、表舞台だけでは見えてこなかった知られざるその人物像をご紹介します。

社会生活においては、圧倒的な手腕と支持率の元に、歴史に名を遺すほどの成功を収めたペリクレス。

しかし家庭におけるペリクレスは、苦労の絶えない人物だったことが見えてきます。

結婚し2人の男児に恵まれたものの、夫婦仲が上手くいかず40歳の頃に離婚

その後、美しい愛人と親しい間柄になりました。

大将軍の離婚と愛人の存在。

これだけでも世間はスキャンダルとして大きく話題にします。

さらに熱心に教育した息子たちは揃ってペリクレスに反発的になり、父親の名前を使って非行に走る始末。

晩年には、厳格さとは程遠いそんな実態を多くの市民に知られ、戦争によるペストの流行も相まってペリクレスは批判の対象にされたのでした。

ちなみに自身も最期はペストに倒れたペリクレスですが、その前に息子二人も同じ病気であっけなく死んでしまっています。

 

きょうのまとめ

今回は古代ギリシアのアテネにおいて、民主政治を完成させたペリクレスについて、その生涯や功績をご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

新たな学びは得られましたか。

最後に、ペリクレスとはどのような人物だったのか簡単にまとめると

① 古代ギリシャ、アテネの政治家であり将軍。

② ペルシア戦争を終結させ、民主制によるアテネの黄金期を築いた。

③ 晩年に起きたペロポネソス戦争の最中、ペストにより病死した。

人生の晩年は特に悩みの種が多かったペリクレス。

しかしそんな一面を知ることで、単なる歴史上の偉人としてだけでなく人間味のある魅力的な存在として、彼の功績を学ぶ私たちにはより身近で印象深いものとなるのです。

現在では多くの国が採用している民主制の政治。

その根本に、ペリクレスの改革は間違いなく影響を与えていると言えるでしょう。

 
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