カール・ツンベルクとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

江戸時代、オランダ商館付医師として日本を訪れた

カール・ツンベルク

ヨーロッパの日本研究において、植物を重視したのは彼が初めてでした。

また、ツンベルクが研究の舞台にしたのは、日本だけではありません。

彼の辿ったその軌跡を知れば、学者としてのスケールの大きさに圧倒されるはず。

カール・ツンベルクとはいったいどんな人物だったのか、今回はその生涯に迫ります。
 

カール・ツンベルクはどんな人?

プロフィール
カール・ペーテル・ツンベルク

カール・ペーテル・ツンベルク
Carl Peter Thunberg
出典:Wikipedia

  • 出身地:スウェーデン・ヨンショーピング
  • 生年月日:1743年11月11日
  • 死亡年月日:1828年8月8日(享年84歳)
  • 江戸時代、オランダ商館付医師として来日した植物学者。ヨーロッパへ向けて日本の植物を詳細に紹介した初めての人物。

 

カール・ツンベルク 年表

年表

西暦(年齢)

1743年(1歳)スウェーデン・ヨンショーピングに生まれる。

1761年(18歳)ウプサラ大学へ入学。カール・フォン・リンネのもとで医学、博物学を学ぶ。

1770年(27歳)医学博士号を取得。デンマーク、オランダ、フランスにて学ぶ。

1771年(28歳)オランダ東インド会社の船医となる。

1772年(29歳)南アフリカ共和国・ケープタウンの喜望峰に滞在。動植物の研究に尽力する。

1775年(32歳)インドネシア・バタヴィア(ジャカルタ)を経て、オランダ商館付医師として来日。日本の動植物を研究する。

1776年(33歳)第10代将軍・徳川家治いえはる謁見えっけん。同年、バタヴィアへ戻る。

1779年(36歳)オランダ、ロンドンを経てスウェーデンに帰国。

1781年(38歳)ウプサラ大学で植物学教授となる。

1784年(41歳)『日本植物誌』を発刊。

1785年(42歳)ウプサラ大学学長となる。

1793年(50歳)『ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記』全4巻の刊行が完了。

1823年(80歳)『喜望峰植物誌』全編の刊行が完了。

1828年(84歳)ウプサラ郊外・ツナベリーにて死没。

 

分類学の父リンネに師事

カール・ツンベルクは1743年、スウェーデン、ヴェッテルン湖の南端に位置するヨンショーピングという街で生まれました。

医学を志したツンベルクは、18歳のころに名門ウプサラ大学へ入学。

「分類学の父」と名高い生物学者カール・フォン・リンネのもとで、医学、博物学を9年間学びます。

リンネは、とてつもなく長い学名で呼ばれていた動植物を、「二名法」という手法で簡潔に改名していった人物。

有名な例だと、「哺乳類」という言葉を考えたのもリンネです。

ツンベルクはそんな彼の一番弟子ともいえる教え子だったといいます。

1770年には医学博士号を取得し、オランダやフランスなど、ヨーロッパ各地を留学することに。

その先でオランダ人植物学者ヨハネス・ブルマンの紹介を得たことで、1771年からオランダ東インド会社船医となります。

東インド会社の船医となって各地の生態系を調査するよう命じたのは、リンネだという説も。

ヨハネス・ブルマンの息子ニコラは、ツンベルクの後輩にあたり、リンネから教えを受けていましたから、そこでつながりがあったのかもしれません。

 

喜望峰での生態系調査

オランダ東インド会社の船医となったツンベルクは、1772年から、南アフリカのオランダ植民地ケープタウンに滞在します。

オランダ語を習得しようという考えからの行動だといいますが、この選択をしたことはツンベルクの生涯に大きな意味をもたらしました。

ケープタウンから南に伸びる喜望峰は北側が山脈でさえぎられる地形の影響で、その他の地域とはまったく異なる生態系をもつ場所。

ツンベルクは滞在期間の3年間、この喜望峰の植物採集に奔走します。

そして晩年、刊行される『喜望峰植物誌』は生物学界の偉大なる一歩となるのです。

 

日本での日々

1775年に南アフリカを後にしたツンベルクは、インドネシア・バタヴィア(ジャカルタ)へ。

その後、長崎・出島のオランダ商館付医師として来日することとなります。

1年で812種の植物を採集

ツンベルクはもちろん日本でも生態系の研究をしようと試みましたが、オランダ商館の外国人は出島から外へ出ることを禁止されていました。

そのため当初は、牛や豚の飼料として島内に運ばれてくる牧草を研究対象にしたという話。

途中からは長崎奉行に許しを得て、近場の植物であれば出島の外のものも採集できるようになったといいます。

このほか、オランダ商館長の江戸参勤にも随行。

長崎から江戸まで東海道を行くなか、何度も駕籠かごを降りて植物や昆虫を採集しました。

研究手段を制限されるなか、あの手この手で資料を集めていたのですね。

結果ツンベルクは、1年4か月の滞在期間で812種もの植物を集めたというから驚かされます。

この研究の集大成となるのが、後年発刊された『日本植物誌』

これまでヨーロッパで日本の植物に触れた書物は、1690年に来日したエンゲルベルト・ケンペル『日本誌』ぐらいなものでした。

そして日本誌では、植物について断片的にしか触れられていません。

つまりツンベルクの日本植物誌は、日本の植物を詳しく紹介した、ヨーロッパ初の書物となったのです。

ツンベルクがヨーロッパへ伝えた植物には

・カキ(Diosphyros kaki Thunb)

・サザンカ(Cammellia sasanqua Thunb)

・ナンテン(Nandina domestica Tumb)

など、日本名がそのまま、西洋でも使われる学名となった植物もあるんですよ。

 

 

ツンベルクと親交のあった日本人

ツンベルクは日本滞在中、通訳の吉雄耕牛よしおこうぎゅうと親交を深め、西洋医学を伝授しています。

吉雄が開いた「成秀館」は、全国から600人以上が教えを乞いにやってきたとされる私塾。

ツンベルクから受けたその教えも、ここで広く伝えられていくこととなります。

また、江戸参勤の際は

桂川甫周かつらがわほしゅう

・中川淳庵じゅんあん

などの蘭学者がツンベルクの教えを受けました。

見返りに、日本の植物について書かれた書物を譲ってもらったという話もありますね。

中川は杉田玄白らとともに、日本初の西洋医学書『解体新書』の翻訳に携わった人物。

桂川も父の甫三ほさんが杉田の友人であり、当時の医学界では名の知れた人でした。

このようにツンベルクは自身の研究のみならず、日本の医学界にも影響を与えています。

ちなみに第10代将軍・徳川家治いえはるにも謁見えっけんしていますが…。

ツンベルクからすれば江戸参勤の本命は植物採集。

将軍に会うことはおまけぐらいにしか思っていなかったかもしれませんね。

 

 

晩年

日本を後にしたツンベルクは、バタヴィア、オランダなどを経由して1779年にスウェーデンへ帰国

1781年からはウプサラ大学で植物学教授を務めるようになります。

このころには師であるリンネが没しており、ツンベルクがその後釜として採用されたのです。

「一番弟子が修行の末に師匠の跡を継ぐ」と考えると、これもドラマチックな展開ですよね。

そして1785年にはウプサラ大学学長に。

以降は職務に追われる日々を過ごしますが、その最中でも持ち帰った資料の研究は進められていきます。

ここからツンベルクが残した

・『日本植物誌』…1784年

・『ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記』…1788~1793年

・『喜望峰植物誌』…1804~1823年

は、ヨーロッパに新たな知見をもたらす書物として、多大な注目を集めることとなりました。

集めた標本の数々は、今もウプサラ大学にて管理されています。

 

きょうのまとめ

江戸時代の日本と、南アフリカの喜望峰。

ツンベルクは未開の地の生態系をことごとく研究し、当時のヨーロッパへ伝えました。

見たことのない植物の数々は、幾多のヨーロッパ人の想像をかき立てたことでしょう。

最後に今回のまとめです。

① 「分類学の父」カール・フォン・リンネの一番弟子。リンネの指示で喜望峰や日本の植物を調査したという説がある。

② 日本では1年4か月の滞在期間で、812種もの植物を採集。家畜の飼料を使ったり、江戸参勤の道中を利用したり、手段を選ばなかった。

③ 帰国後は、師リンネの跡を継いでウプサラ大学で教鞭を執る。集大成の『日本植物誌』や『喜望峰植物誌』は、ヨーロッパの生物学界に多大な影響を与えた。

飽くなき探求心と世界を巡る大冒険の逸話には、やはり胸躍らされるものがあります。

国を出ることを許されない江戸時代の日本人ならなおさら、ツンベルクのような人物と接することは刺激的だったでしょう。

 
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