明治~昭和の時代において、日本になじみのなかった童話文化の礎を築いた作家
小川未明。
「日本童話界の父」「日本のアンデルセン」と名高く、浜田浩介、坪田譲治らとともに「児童文学界三種の神器」とも呼ばれるなど、異名のオンパレードを誇る偉大な作家です。
具体的にはいったいどんな功績を残した人なのでしょう?
また功績とは裏腹に未明の作品は、時代に不適切だと批判された経緯も…。
小川未明とはいったいどんな人物だったのか、以下よりその生涯を辿ってみましょう。
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小川未明はどんな人?
- 出身地:新潟県高田(現・上越市)
- 生年月日:1882年4月7日
- 死亡年月日:1961年5月11日(享年79歳)
- 明治~昭和にかけて童話作品を数多く発表し、日本に童話を普及させた作家。その功績から「日本童話界の父」「日本のアンデルセン」の異名をもつ。
小川未明 年表
西暦(年齢)
1882年(1歳)新潟県高田(現・上越市)にて修験者の父・小川澄晴のもとに生まれる。
1895年(13歳)旧制高田中学(現・高田高等学校)へ入学。
1901年(19歳)東京専門学校(現・早稲田大学)へ入学。
1904年(22歳)師・坪内逍遥から「未明」の号をもらい、雑誌『新小説』に処女作『漂浪児』を発表。
1905年(23歳)雑誌『新小説』に発表した『霰に霙』で作家としての地位を確立する。早稲田大学英文科を卒業。早稲田文学社に編集者として務める。
1907年(25歳)第一短編集『愁人』を発表。
1910年(28歳)日本初の創作童話集『おとぎばなし集 赤い舟』を発表。
1925年(43歳)関東大震災の児童慰問をきっかけに「早大童話会」を立ち上げる。
1926年(44歳)日本児童作家協会の創立に携わる。『東京日日新聞』にて、今後、他の小説は書かず童話のジャンルに専念することを発表。
1937年(55歳)雑誌『お話の木』を創刊。
1944年(62歳)小国民文化功労賞を受賞。
1946(64歳)日本児童文学者協会を創立、初代会長を務める。第五回野間文芸賞を受賞。
1951年(69歳)日本芸術院賞を受賞。
1953年(71歳)日本芸術院会員となる。
1961年(79歳)脳出血により、高円寺の自宅にて死没。
小川未明の生涯
ここからは小川未明の生涯にまつわるエピソードを、より詳細に辿ってみましょう。
豊かな自然に育まれた少年期
小川未明は1882年、現在の上越市にあたる新潟県高田にて生まれます。
本名は小川健作。
父の小川澄晴は、戦国大名・上杉謙信を崇拝する修験者で、謙信を主神として祀る春日山神社の創設にも携わった人です。
(※修験者…山籠もりをして修行する人のこと)
そのため未明もよく山のなかを散歩に連れて行ってもらったといい、豊かな自然のなかで少年期を過ごしました。
この環境と祖母から民話の読み聞かせをしてもらっていたことが、のちに童話作家となる素養を育てたようです。
ちなみに未明は数学がめっぽう苦手で、中学時代は落第を繰り返していたという、かなり文系に偏った少年でした。
挙句、中学は卒業を諦め、中退してそのまま上京。
現在の早稲田大学にあたる東京専門学校の哲学科、英文科へ進むこととなります。
師・坪内逍遥に見いだされ作家の道へ
未明の人生を大きく変えたのが、早稲田大学時代に師・坪内逍遥と出会ったことでした。
在学中、逍遥が主宰する読書研究会に出入りしていた未明は、自身が書いた小説を添削してもらっています。
そこから才能を見出されて、雑誌『新小説』に作品を寄稿することになるのです。
未明は早大時代、
・『霰に霙』
の2作品を『新小説』にて発表。
これらは文壇で瞬く間に注目を集め、未明は卒業後の作家としての地位を手に入れることになります。
そしてこの寄稿の際に師・逍遥から授かった号が「小川未明」です。
「未明」というのは「黄昏」をより詩的に言い換えたもの。
つまり夕暮れ時の赤く染まった景色の美しさが、その名には込められているのです。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の影響も
未明が早大に通っていた1904年は、作家・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が講師をしていた時期でもあり、未明もその授業内容に痛く感銘を受けています。
卒業論文でも未明は八雲のことを論じており、その存在が以降の作風に大きな影響を与えたことは間違えありません。
八雲は「ろくろ首」や「雪女」など、日本に古くから伝わる怪談を作品として成立させた人です。
非日常を表現しているあたり、未明の童話にも通じるところがありますね。
このようにして、大学時代の未明はたくさんの師匠に囲まれながら、作家としての才能に磨きをかけていったのです。
童話作家に専念・戦前の童話界を牽引する
早大を卒業後、早稲田文学社にて編集者となった未明は、そのかたわら、自らも作家として多くの作品を生み出していきます。
28歳を迎えた1910年には、日本初の創作童話集となる『おとぎばなし集 赤い舟』を発表し、日本の童話作家のパイオニアの位置付けをほしいままにしていきます。
そして1926年、44歳のころ、「東京日日新聞」にて『今後を童話作家に』という文書を発表。
その他のジャンルは一切書かず、童話だけに専念する旨をおおやけにします。
以降、計1200篇ほどの童話を世に残した未明は
・文化功労者
など、名立たる賞を受賞。
また日本児童文学者協会の初代会長を務めるなど、「日本童話界の父」の名にふさわしい活躍を晩年まで見せました。
批判にさらされた晩年
日本に童話文化を普及させた未明の功績は計り知れません。
しかし晩年、1950年以降はその作風が批判されてしまうという、苦い経験もしています。
未明は1925年に早大の童話サークル「早大童話会」の設立に、顧問として携わっているのですが、未明の作品が批判されたのは、なんとこの早大童話会の会員たちからでした。
1950年代といえば、第二次世界大戦の敗戦を受け、国内に重苦しい空気が漂っていた時代。
そんな時代において、子どもたちにどのような教育をしていけばいいのか、どんな童話を聞かせていけばいいのか…といった問題に直面した際、未明の作品は不適切だと見なされたのです。
例として未明の代表作を挙げてみると、たしかに重い内容のものが多く見受けられます。
・『金の輪』…病気の少年に忍び寄る死の気配
・『野ばら』…ふたりの兵士の間柄を巡って描かれる、戦争の虚しさ
こうした「死」や「滅び」を扱った作品を、戦後の教育によくないと見なした早大童話会は、1953年に「少年文学宣言」を発表。
そのなかで未明の作品が批判されてしまうのです。
戦後の重苦しい空気を払うため、作家たちはポジティブな作品を世に求めていたのですね。
ただ、今となってみれば未明の作品が子どもに悪影響かといわれると、決してそんなことはありません。
たとえば『赤いろうそくと人魚』に込められた「私利私欲に溺れるとしっぺ返しがくる」という教訓は、子どもたちにとっても有意義なもののはず。
また子どものうちから「死」というテーマに向き合っておくことも、貴重な体験だといえます。
未明の作品が批判されてしまったのは、時代柄、日本の文学界自体が混乱していたゆえのことなのでしょう。
とても気が短かった小川未明
童話ということもあり、未明の残した作品はほとんどが短編です。
しかし未明の作品に短編が多いのは、単に童話だからという話ではない説もあります。
未明と並び、「児童文学界三種の神器」に数えられる坪田譲治によると、未明は非常に短気な性格で、短編が多いのはそのせいだというのです。
・将棋の指し手が恐ろしく早く、あっという間に勝負がついてしまう
・趣味で骨とう品や盆栽などを集めていたが、どんなに苦労して手に入れたものでも、飽きるとすぐに売り飛ばしてしまう
などなど、その気の短さを表すエピソードもたくさんあります。
このほか、話の長い人が嫌いだったという話もあり、なんでも簡潔に結論を出したい性分だったことが伺い知れます。
未明の作品はテンポが良く、サクサク読み進められるのも特徴。
それが彼の性格に由来するというなら、文脈のなかにはその人柄を感じられる部分がまだまだありそうで、より興味を惹かれますね。
きょうのまとめ
日本の童話のパイオニアとなり、童話文化を広めた小川未明の作品は、以降の「童話」とジャンル付けされる作品群とは一線を画します。
しかし教訓がわかりやすく表現されたその内容は、子どもだけでなく大人が読んでも多くの気付きを与えてくれるもの。
Web上で無料公開されている作品も多いので、気になる人はぜひ目を通してみてください。
最後に今回のまとめです。
① 小川未明は早稲田大学時代、坪内逍遥に作品を添削してもらった際に才能を見出され、作家のキャリアをスタートさせた。そのほか、小泉八雲など多くの師匠に影響を受けた。
② 日本の童話会のパイオニアとなった未明は、1926年に童話の創作に専念する旨を発表。以降、さまざまな賞の受賞や、日本児童文学者協会の設立など、童話の普及に多大な貢献をした。
③ 作品の重いテーマが戦後の時代に見合わず、晩年は批判にさらされてしまう。しかし教訓に富んだ作品の内容は再度評価されている。
小川未明の生涯は、「日本のアンデルセン」と呼ばれることも納得の、まさに童話に捧げた人生でした。
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