実存主義の先駆けとなる思想を遺した哲学者、
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。
「神は死んだ」というインパクトある言葉を遺したことでも有名な彼ですが、その真意を考えたことがありますか。
ニーチェとは一体どのような人物だったのでしょうか。
今回はその生涯について、主な功績と共に見ていきましょう。
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ニーチェはどんな人?
- 出身地:プロイセン王国領 プロヴィンツ・ザクセン
- 生年月日:1844年10月15日
- 死亡年月日:1900年8月25日(享年55歳)
- 哲学者、思想家。実存主義の先駆者、生の哲学者。
ニーチェ 年表
西暦(年齢)
1844年(0歳)プロイセン王国領、ライプツィヒ近郊の村で誕生。
1854年(10歳)ナウムブルクにあるギムナジウムに入学。
1858年(14歳)名門校プフォルタ学院に給費生として転学。
1864年(20歳)ボン大学に入学。神学部、哲学部に在籍。
1865年(21歳)ライプツィヒ大学に転学し、古典文献学に傾倒。
1867年(23歳)志願兵として砲兵師団に入隊するも、翌年落馬事故に遭い除隊。
1868年(24歳)リヒャルト・ワーグナーとの親交が始まる。
1869年(25歳)スイスのバーゼル大学で学生ながら員外教授に就任。
1872年(28歳)『悲劇の誕生』を出版する。
1873年(29歳)評論『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』を発表。
1874年(30歳)評論『生に対する歴史の利害』、『教育者としてのショーペンハウアー』を発表。
1876年(32歳)評論『バイロイトにおけるワーグナー』を発表。
1878年(34歳)『人間的な、あまりにも人間的な』を出版した後、健康上の理由で退職。以後10年に渡り毎年1冊のペースで著作を出版する。
1881年(37歳)『曙光:道徳的先入観についての感想』を発表。
1882年(38歳)『喜ばしき知識』第1部を発表。
1883年(39歳)イタリアのラパッロにて、10日で『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる。
1885年(41歳)『ツァラトゥストラはかく語りき』第4部を書き上げる。
1886年(42歳)『善悪の彼岸』を自費出版。
1887年(43歳)病気の発作が頻度を増し、長時間の執筆が困難になる中『道徳の系譜』を一息に書き上げる。
1885年(44歳)5冊の著作を書き上げるも、これが最後の著作となる。
1889年(48歳)騒動を起こした後に発狂。バーゼル大学付属の精神病院に入院し、イェーナ大学付属精神病院に転院する。
1890年(49歳)母親の希望もあり、退院してナウムブルクの実家に戻る。
1900年(55歳)肺炎により死去。
ニーチェの生涯
ここからは早速、ニーチェの主な功績についてその生涯と共にご紹介していきます。
近代文明の批判
24歳という若さでスイスのバーゼル大学教授として、年長の候補者を抑えて就任したニーチェ。
この時の彼は、古代ギリシャやローマの哲学や文学などの古典文献学を専攻していた学生であり、教師としての資格は何一つ持ていませんでした。
それにもかかわらず彼が教授に抜擢された背景には、鋭く俯瞰的な視点で世の中を見つめ、近代文明に対する批判とその克服を図るための深い思想をその頃には既に持っていたからです。
冒頭でもご紹介した「神は死んだ」というフレーズも、時代を見つめていたからこそ生まれたものでした。
しかし、これはニーチェがキリスト教の教えを批判したという意味ではありません。
彼は神が他の誰でもない、キリスト教の信者たちによって殺害されたということを示しているのです。
そこには庇護を受けることに甘えている信者たちが、信仰そのものを怠りいつの間にか神を信じる心を忘れている姿に、「神の死」を感じたものでした。
実存主義の先駆け
近代に生きた彼はその時代に居ながらにして、近代的な思想に根付いていた絶対性を批判しました。
そもそも宗教的な教えや道徳観は単なる一つの解釈でしかなく、物事に対して人それぞれ解釈は異なるとしたのです。
ニーチェは、解釈の仕方には何に重点を置くかという「権力への意志」が関わっていることを示しました。
そして、信仰の力の喪失と共に神の存在がもはや死んでしまった世の中で、信仰に代わる新たな指針や価値観について考えます。
ニーチェはこれを若い頃から思索し、
・どうすれば人生を楽しめるのか
といった実践的な哲学の方法によって長年の研究、執筆活動の中で取り組んでいきます。
彼の考えでは、生きる目的や真理を見出すことよりも、人は今目の前の実存に目を向けるべきなのです。
そういったことも含め、彼の思想はそれまでの社会的な価値観や宗教観を根底から壊す画期的なものだったのでした。
ちなみに彼の代表的な作品の多くが、教授職を退職した後に書かれていきます。
ニーチェの著作
幼い頃から音楽や文学的な才能にも恵まれていたとされるニーチェ。
哲学者の著作物というと、複雑で難解なイメージでなかなかハードルが高いと思われるでしょう。
しかし彼が発表した著作は、文学作品としても楽しめると言われています。
例えば淡々と自身の思想を書き記す文献のような形式ではなく、主人公を設定してその人物に語らせるという小説のような形式を採るなど、工夫がなされているのです。
こうしたニーチェの思想や著作は、後世の思想家たちだけでなく、作家や芸術家にも影響を与えることになりました。
ニーチェの晩年
ここでは、ニーチェに関する有名なエピソードとして語られる「発狂」と彼の晩年についてご紹介します。
34歳で教授職を退職した後、10年に渡り執筆を続けたニーチェ。
1年に1冊というハイペースで著作を生み出し、ときには10日で1冊を完成させることもありました。
そんな彼は44歳の時には1年で5冊も書き上げるという仕事ぶりを見せます。
しかしこれが最後の作品となりました。
この数年後に彼は道端で発狂し、一騒動起こした後に精神病院に入院することになったのです。
実はニーチェは、元々重度の近眼でたびたび頭痛や吐き気に悩まされ、落馬事故での怪我や自殺願望など、様々な心身の不安に日々脅かされていました。
最後の5冊を執筆し終えた時点で彼は、既に限界を迎えていたのでした。
55歳の時に肺炎で死去するまでの晩年の彼は、まともな会話もままならない状態にまで衰弱していたと言われています。
しかし皮肉にも、ニーチェの思想はこの頃になってようやく世間に受け入れられ始めていたのです。
きょうのまとめ
今回はニーチェについて、その生涯を主な功績と共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ニーチェとはどのような人物だったのか簡単にまとめると
① 実存主義の先駆けとなった生の哲学者、思想家。
② 「神は死んだ」という有名な言葉を遺し、近代的な価値観の根底を覆して新たな思想を提唱した。
③ 晩年は発狂し心身共に衰弱してしまったが、その思想は現代人さえも明るく勇気づけるものである。
ニーチェの思想に興味を持たれた方は、入門として『超訳 ニーチェの言葉』という本を読まれてみてはいかがでしょうか。
誰もが創造的な人生を歩んでいけるようにというニーチェの思想が、現代人にも分かり易く書かれています。
また彼には他にも有名なエピソードがいくつもあります。
その思想を身近に感じるために、興味を持たれた方はお時間のあるときにでもぜひ調べてみて下さい。
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