直木三十五とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「直木賞」と「芥川賞」、本に明るくない人でもノミネート作品を知っているぐらいのこれらは、現代の文学界の二本柱といえる栄誉です。

芥川賞の芥川龍之介は、教科書などにも載っているため、作品に関してもよく知られていますよね。

一方、直木賞は…?

これは芥川賞と同時に1935年、文藝春秋社の創設者・菊池寛きくちかんによって創設された賞で、彼の親友で明治~昭和初期にかけて生きた作家・直木三十五なおきさんじゅうごにちなむもの。

誰…?

と思う人も少なくないでしょう。

芥川に比べると、直木の作品は知名度が低いんです。

彼の破天荒すぎるその生涯が、当時の風潮的にあまり良しとされなかったことが原因とも?

そんな直木三十五とはいったいどんな人物だったのか、以下より辿ってみましょう。

 

直木三十五はどんな人?

プロフィール
直木三十五

直木三十五(1930年頃)

  • 出身地:大阪府大阪市南区安堂寺町(現・大阪市中央区)
  • 生年月日:1891年2月12日
  • 死亡年月日:1934年2月24日(享年43歳)
  • 大衆向けのわかりやすい表現で、主に歴史小説などを一般層に浸透させた功績をもつ作家。記者としての企画・編集力にも定評がある。その名にちなんだ「直木賞」は、大衆文学の優秀作品に贈られる。

 

直木三十五 年表

年表

西暦(年齢)

1891年(1歳)大阪府大阪市南区安堂寺町(現・中央区)にて古物商の父・植村惣八と母・しづの長男として生まれる。

1911年(20歳)早稲田大学英文科予科に入学、高等師範部に進学するも学費未納で中退。

1917年(26歳)新興美術社の記者、大日本薬剤師会の書記などを経験する。

1918年(27歳)トルストイ全集刊行会(春秋社の前身)を創設する。

1919年(28歳)雑誌『主潮』を刊行。

1920年(29歳)雑誌『人間』の編集を担当する。

1923年(32歳)関東大震災を機に帰阪。プラトン社に入社し、雑誌『苦楽』の編集を担当する。大衆小説の執筆も開始。

1924年(33歳)小説『心中きらら坂』がヒットし、映画化。制作会社マキノ・プロダクションの牧野省三との縁ができ、次第に映画製作にのめり込むようになる。

1925年(34歳)牧野省三らと映画制作集団「連合映画芸術家協会」を設立。

1927年(36歳)大手プロダクションの圧力などで総合映画芸術家協会を解散。東京へ戻り、作家活動を再開する。

1929~31年(38~40歳)由比根元大殺記ゆいこんげんだいさつき』『黄門廻国記』『南国太平記』などで大衆作家としての地位を確立。

1934年(43歳)東京帝国大学附属病院にて、結核性脳膜炎により死没。

1935年 文藝春秋社の菊池寛により「直木三十五賞」が創設される。

 

直木三十五の生涯

ここからは直木三十五の生涯にまつわるエピソードを詳しく見ていきましょう。

青年期・相撲の「タニマチ」の語源となった薄恕一のお世話に

1891年、直木三十五は大阪市南区安堂寺町(現・中央区)にて、古物商を営んでいた父・植村惣八と母・しづの長男として生まれました。

本名は植村宗一。

青年期には大阪の谷町タニマチ六丁目にあった薄医院の院長・薄恕一すすきじょいちに大層世話になったといい、この病院でのアルバイトで学費を稼ぎ、直木は早稲田大学への入学を叶えることになります。

この薄という人物は相撲のスポンサーである「タニマチ」の語源となっている人で、当時相撲界の若手力士を無料で診断するなど、親身になって支援したことから、相撲界への支援の風潮が広まっていったといういきさつがあります。

直木は叔父のつながりで幼少から薄医院になじみがあり、面倒見のいい薄は力士たちと同等に直木の世話を焼いていたのです。

記者としてのキャリアをスタート

薄恕一の支援もあり、早稲田大学へと進学した直木でしたが、実はこの大学は途中で学費が払えなくなり、中退となっています。

このころ、直木は芸者遊びに夢中になっており、退学もその趣味がたたっての金欠が原因でした。

また大阪で知り合った年上に女性、佛子寿満ぶっしすまとの同棲もこの時期から始まっており、25歳のときには長女の木の実が生まれています。

芸者遊びに浪費しまくる直木と一緒になろうとは、寿満さんも相当に懐が深いというかなんというか…。

ともあれ、家族ができたことで稼がざるを得なくなった直木は、26歳から記者としてのキャリアをスタート。

編集・企画で卓越した手腕を発揮し、雑誌『新興美術』『主潮』『人間』など、関わった企画はほとんど成功に導いています。

特に並外れていたとされるのはその執筆速度で、多い日には1時間で16枚の原稿を仕上げるほど。

原稿用紙1枚を400文字として…400×16=6400文字。

普通は5~6時間かかってもおかしくない文量ですが…

直木は膨大な読書量から情報が常にストックしており、いつ何を求められても書ける才能の持ち主だったがゆえ、これだけの速筆も可能だったのだとか。

高給取りでも借金まみれ

並外れた執筆能力のおかげで、記者としてそれなりの高給取りだった直木ですが、やはり浪費癖がたまにきずです。

・芸者遊び

・高級車

・刀剣のコレクション

・競馬や麻雀などのギャンブル

・一般層はとても乗ることができなかったプロペラ機での旅行

などなど、直木の趣味にはお金のかかるラインナップがこれでもかと軒を連ねます。

原稿料はほぼこれらの娯楽に消えており、彼は生涯で家賃というものを払ったことがない(!?)という話まであるほど。

このようにして莫大な借金を抱えていた直木。

作家の借金苦というのはよくあるエピソードですが、直木のそれはもはや借金”苦”ではないような。

財産の差し押さえとかなかったんでしょうか…?

関東大震災の影響で帰阪・映画制作にのめり込む

借金をものともせずのうのうと暮らしていれば、いくら売れっ子記者でもいつかは破綻してしまうものです。

…しかし直木にいたっては、生涯のうのうと暮らし続けることができたんですよね。

というのも、1923年に起こった関東大震災の影響で世間は借金の督促どころの騒ぎではなくなってしまったからです。

これを受けて、東京から大阪へ引っ越してきた直木は、晴れて(?)無借金の状態から作家活動ができることになります。

すると1924年に発表した『心中きらら坂』がヒットし、映画制作会社のマキノ・プロダクションから映画化のオファーを受けることに。

このとき社長の牧野省三と親しくなった直木は映画制作への興味を強め、翌年、映画制作集団「連合映画芸術家協会」を設立。

映画制作にのめり込んでいくことになります。

・小説の映画化という形で思わぬ収入が入ったこと

・震災の影響で東京よりも大阪がメインストリームになっており、その大阪で映画が流行り出していたこと

これらの事情が重なり、直木のなかで映画熱が一気に加速していったがゆえの方向転換でした。

映画監督としては芽が出ず

作家・記者としては一流の直木ですが、映画監督としてはまったくうまくいきませんでした。

原因のひとつは、協力者の牧野省三との関係が悪化したこと。

映画制作にあたって直木は一切の費用を負担せず、すべてマキノ・プロダクションの機材を拝借して制作を行っていました。

挙句、このころ直木は牧野宅に居候しており、完全に牧野におんぶに抱っこの状態。

映画界では

「直木はタイトル出しだけで金儲けをしている」

と悪評が立てられる始末でした。

また当時は大手プロダクションが独立プロダクションに市場を荒らされることを嫌う風潮があり、直木の協会も大手からの圧力を受けることになります。

これらの理由から赤字が立てこんだ連合映画芸術家協会は、約2年で解散。

特にヒット作を生み出すこともなく、直木は映画制作の道から早々に足を洗うことになるのでした。

映画制作は小説などより多くの人が関わりますし、費用も莫大にかかります。

奔放すぎる直木には不向きなビジネスだったのかも…?

大衆作家としての地位を確立

映画の道を諦めた直木は、同時に東京へ戻り、作家としての活動に力を入れていきます。

編集や企画などで主に活躍してきた直木の小説が注目され始めるのは、1929~1931年(38~40歳)のこの時期の話。

代表作は『南国太平記』で、幕末の時代、薩摩藩の藩主を巡るお家騒動をテーマにした歴史小説です。

当時、歴史小説にはお堅いイメージがあったのですが、それを大衆向けにわかりやすく書いたのが直木でした。

このほかにも水戸黄門の原作である『黄門廻国記』など、エンターテインメント性を重視した歴史モノは、次第に直木のお家芸として注目されていきます。

さらにSFや、満州で直接取材を行った小説『太平洋戦争』など、とにかく話題性に富んだ作品を多く創作しており、晩年の直木はかなり革新的です。

彼の死後に設立された直木賞は、主に大衆文学に向けて贈られるもの。

まさに大衆に向けてわかりやすく、興味をそそる作品を発表し続けた彼の名にふさわしい賞なのですね。

過労に蝕まれた晩年

どんなに有名作家になろうとも、直木は晩年も目先の原稿料を追い求める日々を送り続けます。

『直木三十五全集』に載せられた自ら書いたプロフィールによると、直木はだいたい深夜12時から朝方9時ごろまで原稿を書き続け、そこから昼の2時か3時ぐらい眠る…という生活を送っていたのだとか。

稼いだら稼いだだけ遊びに使う浪費癖は治ることもなく、いくら原稿料をもらっても金欠という暮らしぶりは、晩年まで続いていたのです。

こんな乱れた生活を送っていたせいか、身体にも無理がいっていたのでしょう、直木は机に向かうことなく、うつ伏せに寝ころんだ状態で原稿を書くことが常だったといいます。

結局、最終的に結核を患い、次第に身体を蝕まれていくことに。

弟の清二に入院を勧められた際も、原稿料を稼ぐことしか頭にない直木は、執筆ができなくなるという理由で拒否し続けたといいます。

それが入院費などは出版社が世話をしてくれるという話でも、

直木
人の世話になるのは嫌いだ

と言い張ったのだとか。

終始金遣いの荒い直木でしたが、それも自分で稼いだお金だからこそ…みたいなポリシーがあったのですね。

こうして1934年2月24日、結核が脳に転移した結果、直木三十五は43歳の若さで亡くなってしまいます。

 

「直木三十五」というペンネームの由来は?

直木三十五の本名は最初のほうで触れたとおり、植村宗一です。

直木三十五っていったいなんなの?

なんでそんなヘンテコなペンネームにしたの?と、思う人も多いでしょう。

直木というのは、本名である植村の「植」を分解したもの。

あとに続く三十五という数字は年齢を表しているのですが、彼は43歳で亡くなるまで三十五を名乗り続けています。

そう、実は直木も当初は自分が歳を取るたびに

「直木三十一」→「三十二」→「三十三」

とペンネームを改めていたのですが、あるとき親友の菊池寛など、周囲から

菊池寛
ややこしいからいい加減にしてくれ

と言われ、以後変更しないことにしたのです。

このときの年齢は33歳なのですが、三十三という名前は姓名判断上よくなく、「散々」などとも読めるため、縁起が悪いということで、別の数字にしようという運びに。

その際に「惨死」を連想させる三十四を避けて三十五となったようですね。

 

きょうのまとめ

直木三十五は、いかにも才能あふれる作家らしく、

「ドンと稼いでドンと遊ぶ」

という生涯を送った人物でした。

遊びにお金を使いすぎているところも作家らしいといえば、作家らしい。

ユニークな作品を生み出すには、ちょっとぐらいぶっ飛んだ感性も必要ということでしょうか?

最後に今回のまとめです。

① 直木三十五は家計を支えるために記者となったが、浪費癖が激しく、収入のほとんどを趣味に使っていた。

② 映画制作に踏み込んだこともあったが、協力者の牧野省三との関係がうまくいかなかったこと、大手プロダクションからの圧力などで芽が出せなかった。

③ 作家としては、大衆向けにわかりやすい歴史小説を書き、大衆に文学を広めていった功績がある。

作品、執筆能力、アウトローさ…どれをとっても作家のなかの作家だった直木三十五。

現代で直木賞が作家にとって最大の栄誉とされていることには、その人となりもまた不可欠なのです。
 

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