日蓮とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

お坊さんというと、柔和で優しいイメージがありますよね。

ですが、日蓮宗の開祖・日蓮はかなりアグレッシブなお坊さんだったのです。

それでは具体的に日蓮はどんな人物だったのか、

彼の生涯を見ていきましょう。

 

日蓮はどんな人?

プロフィール
    日蓮

    出典:Wikipedia

  • 出身地: 安房国小湊(現在の千葉県安房郡小湊)
  • 生年月日: 1222年2月16日
  • 死亡年月日: 1282年10月13日(享年 61歳)
  • 日蓮宗(法華宗)の開祖。題目唱和の教えを説いた。

 

日蓮 年表

年表

西暦(年齢)

1222年(1歳)安房国小湊に生まれる。(幼名、善日麿・薬王丸など)

1233年(12歳)清澄寺の僧・道善房に師事する。

1237年(16歳)出家得度。是聖房蓮長と称する。

1238年(17歳)鎌倉遊学

1242年(21歳)比叡山遊学

1253年(32歳)日蓮宗(法華宗)を開宗。日蓮と称する。

1254年(33歳)辻説法を始める。

1260年(39歳)『立正安国論』を北条時頼に提出する。

1261年(40歳)伊豆へと流罪。

1263年(42歳)赦免

1264年(43歳)小松原法難

1271年(50歳)龍ノ口法難。佐渡へと流罪。

1272年(51歳)『開目抄』を著す。

1274年(53歳)赦免。身延山入山。

1282年(61歳)武蔵国池上で入滅。

 

日蓮の生涯簡単まとめ

日蓮は安房国小湊(現在の千葉県鴨川市)の漁師の子として生まれました。

幼名としては、善日麿(ぜんにちまろ)や薬王丸という説があります。

日蓮宗を開宗

日蓮は天台宗清澄寺の僧・道善房(どうぜんぼう)に師事し、後に出家。

鎌倉や比叡山などで修行を積み、『法華経』のみが釈迦の唯一の教えであると確信を得ます。

そして「南無妙法蓮華経」という題目(※1)を唱えて日蓮宗を開宗、名も日蓮と改めました。

※1 題目: 日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の七字のこと。

※2 念仏: 仏の姿・徳を心に思い浮かべること。転じて、仏の名を唱えること、特に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えること。

他宗を攻撃して伊豆へと配流

辻説法(つじせっぽう/道端で行う説法のこと。)を開始した日蓮は、浄土宗や禅宗などの他宗を攻撃し始めます。

さらに『立正安国論』(※3)を前執権の北条時頼に提出。

※3 念仏を禁じないと国内の反乱や海外から侵略されると主張したもの。

それらの結果、日蓮は圧迫を受け、伊豆の伊東へと流されることになりました。

続く法難と佐渡への配流

流されて2年、日蓮は赦免されますが、その後も法難(仏教の教団や仏教徒が受ける迫害)は続きます。

安房国小松原では念仏を信仰していた地頭・東条景信に襲われ、弟子を一人失っています(小松原法難)。

それでも日蓮は、他宗や幕府への攻撃をやめません。

するとついに日蓮は捕らえられ、龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市)で斬首に処せられることに(龍ノ口法難)。

しかし刑は中止となり、日蓮は佐渡へと流されました。

佐渡では『開目抄(かいもくしょう)』を著しています。

身延山久遠寺を開山

再び赦免されると、日蓮は甲斐国に身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を開山します。

そのため久遠寺は、日蓮宗の総本山です。

久遠寺で布教とともに人材の育成に務めた日蓮でしたが、湯治(とうじ)に行く途中、

武蔵国池上(現在の東京都大田区)で入滅しました(享年61歳)。

 

日蓮にまつわる伝説

なんらかの理由で中止となった、龍ノ口法難における日蓮の斬首。

そのとき、こんな奇跡があったと伝わっています。

 

いよいよ刑が執行されるというとき、江の島の方角から月のような光が飛んできたといいます。

すると刑を執行する役人の目はくらみ、その場に恐れおののいて倒れたそうです。

こうして斬首は中止されました。

信じるか信じないかはあなた次第、というやつですね。

 

きょうのまとめ

今回は日蓮の生涯などについて、簡単に紹介しました。

日蓮とは?

① 法華経のみが釈迦唯一の教えと考え、他宗を攻撃した

② 度重なる迫害を受け、二度流罪にもなった

③ 日蓮宗の総本山・身延山久遠寺を開山した

こちらのサイトでは他にも、鎌倉仏教にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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