那須与一の奇跡|平家物語で語られる「屋島の戦い」扇の的とは

 

1180~1185年の源平合戦で、源氏側の兵として活躍した

那須与一なすのよいち

彼の逸話で特に有名なものは、屋島やしまの戦い」での「扇の的伝説」でしょう。

なにを隠そう、平家物語の目玉にもなっているエピソードです。

これは平家側が「この扇を射落としてみよ!」と波に揺れる船上に扇をかかげ、与一が70メートルも先から射落としてみせたという話。

一介の武士だった与一はこのことで源頼朝に引き立てられ、その後の那須氏を発展に導くのですが…

敵将を討ったとかそういう話でもないし、そんなに称えられることなの?

平家はなんのためにそんな挑発をしてきたの?

などなど、疑問も沸いてきます。

しかし詳しく辿ってみると、実はこの一件が源氏の命運に大きく影響しているんです。

 

源平合戦の鍵を握る一戦「屋島の戦い」とは

那須与一

那須与一
出典:Wikipedia

6年間続いた源平合戦もクライマックスを迎えた1185年のこと、両者の争いのターニングポイントとなったのが「屋島の戦い」です。

屋島というのは讃岐国さぬきのくに屋島(現・香川県高松市)のことで、平宗盛むねもり率いる平家が本拠地にしていた場所でした。

「屋島の戦い」のきっかけ

平家は朝廷での権限を牛耳ろうとしたことが原因で、後白河法皇の反感を買います。

そして1184年の「一の谷の戦い」で源範頼のりより義経よしつね兄弟に討伐され、京から屋島へと逃げてきたのです。

一時は敗戦した平家でしたが、この屋島を拠点に瀬戸内一帯で再び力をつけ、その勢力は九州に及ぶほどになっていました。

そして伊賀や伊勢などの源氏領にもちょっかいを出してくるようになったので、当主の頼朝よりともは、範頼を総大将に再び平家の討伐を行うことにします。

しかし平家は強力な水軍をもつようになっていたため、範頼は攻めあぐね、後発として弟の義経も平家討伐へ向かうことに。

これが「屋島の戦い」へとつながっていくのです。

平家に奇襲をかけた源義経

範頼に代わって平家討伐を任された義経でしたが、強力な水軍をもつ平家に対し、正面からぶつかるのはやられに行くようなもの。

そのため摂津国渡辺津せっつのくにわたなべのつ(兵庫県南東部)から阿波国勝浦あわのくにかつうら(徳島県勝浦市)へと船で渡り、陸路で屋島を目指すことにします。

源氏が海から攻めてくると思い込んでいる平家に奇襲をかけたわけです。

陸からの攻撃を予想していなかった平家軍は慌てふためき、ひとまず海上へ退散することに。

その後、戦いは

・陸から攻撃する源氏

・海上から反撃する平家

という構図になり、どちらが有利ともつかず、平行線を辿っていきます。

 

平家物語に残された「扇の的伝説」

結局、屋島の戦いは決着が着かないまま日が暮れてしまったため、両軍は一時休戦。

ここからが平家物語に残される「扇の的伝説」の一幕です。

扇の的で挑発したのは平家の余裕をアピールするため

平家側としては完全な敗北ではないものの、海上に逃げ出したことは宗盛のプライドを大きく傷つけました。

「今に見てろよ…」と憤る宗盛は家臣に向かって

「源氏側に我らの余裕を示せる方法はないか?」

と問います。

このとき出た案が、竿の先に吊るした扇を船上に掲げ、源氏側に

「これぐらい射貫けるよね?」

と挑発することでした。

扇の的を掲げるのは、命中するか否かで両軍の勝敗を占うという、いわば余興です。

戦場でそんな遊びをするぐらいの余裕があると、平家は示したかったわけですね。

こうして宗盛の指示が下り、一時静まっていた船上に、扇を先端に吊るした竿を持った女性が登場します。

女性に掲げさせたのも、平家側の余裕の演出だったのでしょう。

外せば切腹もの…的を射るよう命じられた那須与一

平家側が掲げた扇の的を見受けると義経は、家臣の後藤実基さねもと

「誰か弓の名手はおらんか?」

と尋ねます。

このとき実基が名前を挙げたのが、那須与一だったのです。

しかし声がかかった与一は自分には無理だと言い、これを断ろうとします。

彼の弓の腕前はたしかに隋一でしたが、的は小さな扇で、70メートルほども先です。

波の上で上下左右に揺れていては、どんなに弓の名手でも射止めることはできません。

万が一外してしまえば、それは義経の顔に泥を塗ることになってしまい、家臣としては切腹もの…とても易々と受けられる指示ではなかったのです。

ただ断った与一に対して義経は

「しのごの言うな!的を射るか、今すぐ国に帰るかどっちかにしろ!」

と一蹴しました。

与一はこのセリフを聞き

「もうここで死ぬしかないのだな…」

覚悟を固めたといいます。

見事的中!源氏の武運を手繰り寄せた与一

弓を放つそのとき、与一は目を閉じると、八幡大菩薩やはただいぼさつや那須の湯泉大明神ゆぜんだいみょうじんなど、さまざまな神様に心のなかで祈りました。

そして

与一
これを射損ずるなら、弓を切り折り、海に沈み、長く武士の仇とならんずるなり。今一度本国へ迎えんとおぼしめされ候はば、扇のまつ中射させて賜り候へ

と念じ、弓を放ちます。

現代風にすると

「これを外した瞬間に自分は弓を折り、海に身を投げて死ぬ。そのあとも武士たちには長く恨まれるだろうな…。もし自分が国に必要な存在であるなら、扇の真ん中を射させたまえ!」

という感じでしょうか。

これが見事命中し、源氏の士気を大きく高めることに。

源氏一行は続く「壇ノ浦の戦い」で平家に完全勝利するのですが、ここでの扇の的の余興がその後押しとなったわけです。

ちなみに平家側もまさか命中するとは思っていなかったようで、与一が見事扇を射貫いたときには船上に姿を現し、源氏と一緒になって舞い踊って称えたといいます。

しかし…ここでも容赦のない義経は、船上で踊る平家の家臣を指して

「あの者を射貫け」

と与一に命じたのだとか…。

 

きょうのまとめ

平家物語で語られる那須与一の扇の的伝説は、普通は絶対に射貫けない的に命中させたというだけでなく、のちの源氏を勝利へ導く鍵となりました。

戦乱に身を置く武将というと自信にあふれているイメージですが、与一は命中させる自信がなかったというのもまた印象的ですね。

だからこそ、より奇跡的に思えるのでしょう。

最後に今回のまとめです。

① 屋島の戦いで平家は源義経に奇襲をかけられ、海上へ逃げることに。これが平宗盛のプライドを傷つけた

② 扇の的の余興を行ったのは、「平家は負けたわけじゃない!」と、源氏側に余裕を示すため

③ 那須与一は見事扇を射貫き、続く「壇ノ浦の戦い」に向けて源氏を勢いづかせた

普通に考えれば単なる余興が戦況を左右するとは考えにくいもの。

しかしこのあとすぐに源氏は平家に勝ってしまうわけですから、モチベーションがいかに大事であるかを感じさせられますね。

 

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