ベニート・ムッソリーニは独自の理論からなるファシスト党を結成し、
第一次世界大戦後から第二次世界大戦にかけて独裁政治を行った人物です。
イタリアから始まったファシズム的支配体制は、
その後ヨーロッパや日本にまで広がりました。
ベニート・ムッソリーニとは一体どんな人物だったのでしょうか。
今回はその生涯に迫ります。
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ベニート・ムッソリーニはどんな人?
- 出身地:イタリア エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県プレダッピオ市ドヴィア地区
- 生年月日:1883年7月29日
- 死亡年月日:1945年4月28日(享年61歳)
- 教師、政治家、軍人、第40代イタリア王国首相。国家ファシストによる一党独裁制を確立した
ベニート・ムッソリーニ 年表
西暦(年齢)
1883年(0歳)イタリア王国フォルリ近郊の町に鍛冶屋と教師の両親の元、長男として生まれる。
1901年(18歳)師範学校を首席で卒業。グアルティエーリで教師になるが1年後に辞職しスイスに移住。
1903年(20歳)スイスのイタリア語圏で労働運動に参加する。ストライキに参加し逮捕され国外処分を受ける。
1905年(22歳)イタリアに帰国し兵役に就く。
1906年(23歳)除隊後オーストリアとの国境近くの町で教師になる。
1908年(25歳)ジェノヴァ近郊の町で教師になり、政治活動では社会党支部の地方機関誌の編集長になる。
1909年(26歳)オーストリア領トレント支部の労働会議所に派遣され、機関誌の編集長になる。
1910年(27歳)帰国し、ミラノの党本部から新しい機関誌の設立を任される。
1914年(31歳)第一次大戦が勃発し社会党に内部対立が起こる。社会党を見限り持論を展開した後、除名処分を受ける。
1915年(32歳)第一次大戦に志願し参戦する。2年後、軍曹に昇進。
1919年(36歳)復員軍人や旧参戦論者を中心とした「イタリア戦闘ファッシ」を設立。
1921年(38歳)「イタリア戦闘ファッシ」を「国家ファシスト党」に発展させる。
1922年(39歳)ファシストたちのローマ進軍。第一次ムッソリーニ政権が誕生する。
1925年(42歳)1月の議会演説で独裁を宣言。6月の党大会ではイタリア国民のファシスト化を宣言。
1934年(51歳)ヒトラーと会談を行う。その人間性に嫌悪感を抱いたが、政治能力は高く評価し独伊の友好を深めた。
1940年(57歳)第二次世界大戦への参戦。日独伊三国同盟を結ぶ。
1943年(60歳)戦況が不利になり、国王に首相を解任された後、幽閉生活を送る。
1945年(61歳)ドイツの支援で再びファシスト指導者となるが、再度失脚。4月28日、愛人のペタッチと共に銃殺される。
ベニート・ムッソリーニ 少年~青年時代
ここではムッソリーニの少年時代から
ファシスト党結成までの道のりをご紹介します。
成績優秀な問題児
無神論者の父と敬虔なカトリック信者の母の間に生まれたムッソリーニは、
子供の頃から学業で優秀な成績を修めていましたが、
身分による待遇の違いと教会で説かれる平等論との間に矛盾を感じ、
たびたび問題行動を起こしては教師たちに監視される問題児でした。
教会でのミサの妨害や上級生たちとけんかを起こし、
一度寄宿学校で退学処分を受けていますが、転校した先では優秀な成績で卒業しました。
師範学校に上がると、哲学や政治学、歴史学の分野に関する本を読み漁り自身の教養を高め、
首席で卒業しています。
父親の影響
鍛冶屋をしていた父親は、政治活動にも熱心な人物で、
ムッソリーニはこの父の影響を強く受けて育ちました。
なかでも「政治の目標は社会正義の実現である」という政治的信念は、
その後のムッソリーニの人生にも大いに受け継がれました。
そして師範学校時代に読書などによって教養を高める一方で、
イタリア社会党の支持者として、演説の場で堂々と持論を語る名演説家としても有名でした。
語学や知識の吸収
師範学校卒業後、教師として働き始めたムッソリーニでしたが、
見聞を広めるために1年後には教職を辞めて、スイスへ移住し放浪生活を送ります。
そして短期間のうちに、そこで話されていたフランス語とドイツ語をマスターしました。
さらに様々な文献を読み漁り、共産主義者からマルクス・レーニン主義の教育を受け、
社会主義理論家としてそこから本格的に政治活動にのめり込んでいくことになるのです。
ウラジーミル・レーニンの年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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逮捕歴と政治活動
スイスに滞在していた際、ムッソリーニはイタリア語圏で労働運動に参加し、
労働組合の事務局長などを務めていましたが、
1903年に起きたストライキに参加したところを逮捕され、国外追放処分を受けています。
さらにイタリアに帰国した際には、兵役期間を海外で過ごしたことが原因で逮捕されています。
その後釈放されると兵役に応じ、退役後は語学力や教養を活かして再び教職に就きます。
政治活動の面では社会党の地方誌の編集長などに抜擢され、数々の記事執筆を行っています。
その後、教職を辞め政治活動に専念するようになると、その存在感をさらに強めていきました。
社会党からの除名処分
第一次世界大戦の影がヨーロッパ全土に忍び寄る1914年。
当時イタリア社会党の機関誌編集長だったムッソリーニは、参戦論を唱え始めます。
社会党が参戦主義と平和主義で対立し、その後中立を宣言すると、
社会党に見切りをつけて党内で参戦への持論を説き始めました。
その結果、社会党からの除名処分を受け、ムッソリーニは志願兵として大戦に参戦します。
その後、まったく新しい運動組織の「戦闘ファッショ」を結成し、
それが後の「ファシスト党」へと発展していきます。
ベニート・ムッソリーニ ファシスト党時代
ムッソリーニの野望
ムッソリーニが結成したファシスト党は、反議会主義、反社会主義を唱え、
「愛国心」や「戦争礼賛」、「偉大なるイタリア」というように、
情緒に訴えかける表現によってファシストたちを先導していきました。
その後、39歳の若さで首相となったムッソリーニは、選挙法の改正や
反発する人間を次々に暗殺し、一党独裁制の野望を果たしたのです。
ヒトラーとの交流
ムッソリーニは、首相に就任し後にドイツを支配することになるヒトラーと
1934年に 初めての会談を行い、後に枢機国として同盟を結びます。
同じファシズム的支配体制をとる国として、二国間の友好を強めるために
互いに協力的な姿勢を示していましたが、
ムッソリーニはヒトラーの政治的能力こそ認めてはいたものの、
その人柄を認めてはいませんでした。
ムッソリーニがヒトラーに対する評価を示したものとして、次のような言葉を残しています。
「ヒトラーと自分の違いは、自分が二流国の一流指導者であるのに対し、
彼は一流国の二流指導者だということだ」
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独裁者の末路
第二次世界大戦の最中の1943年、戦況が悪化するとファシスト党内で
クーデターが起き、ムッソリー二は失脚します。
その後しばらく幽閉生活を送りますが、ドイツによる救出と支援を受け、
再びファシスト党の指導者となります。
しかし日独伊の枢機国が完全に敗北すると再び失脚し、
1945年に連合軍の支援を受けたパルチザンに捕らえられ、銃殺。
遺体はミラノのロレート広場で逆さづりにしてさらされました。
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きょうのまとめ
今回はイタリアの独裁者、ベニート・ムッソリーニの生涯についてご紹介しました。
いかがでしたでしょうか。
ベニート・ムッソリーニとはどんな人物だったのか、簡単にまとめると
① 第一次大戦後にファシスト党を結成し、イタリアに一党独裁政治をもたらした
② 少年~青年期にかけ、問題行動を起こしたり逮捕されることもあったが、成績優秀で勤勉。父の影響を受け、政治的な関心が高かった
③ 同じく独裁政治を行っていたヒトラーとは政治面では協力していたが、個人的な友好関係は築いていなかった
当サイトでは、他にもベニート・ムッソリーニに関する記事を書いています。
よろしければお時間のある時にでものぞいてみて下さい。
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