マザー・テレサとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

生涯を貧しい人々のために働くことに捧げた

マザー・テレサ

20年近く続けた教師生活に別れを告げ、単身スラム街で働き始めたところから始まった彼女の活動は、多くの人の感動を誘います。

そして、テレサの創設した「神の愛の宣教者会」は瞬く間に世界へと広がっていきます。

彼女の平和への貢献度は誰の目にも著しく、ノーベル平和賞を始め、多くの賞が贈られました。

テレサの死から数十年経った今もなお、世界123ヵ国に広がった施設でのボランティアに参加する人は多く、彼女は利他の精神を後世に渡って幅広く伝えたといえます。

テレサはどうして、それほどまでの影響力をもつことができたのでしょうか。

他人のために働きたい…という気持ちをもつ人たちのなかで、どうして彼女が特別だったのでしょうか。

マザー・テレサは一体どんな人物だったのか、その生涯から探っていきましょう。

 

マザー・テレサはどんな人?

プロフィール
マザー・テレサ

マザー・テレサ
出典:Wikipedia

  • 出身地:オスマン帝国・コソボ州・ユスキュブ(現在の北マケドニア・スコピエ)
  • 生年月日:1910年8月26日
  • 死亡年月日:1997年9月5日(享年87歳)
  • 「神の愛の宣教者会」を創設し、貧困層を救うための活動・施設を展開。世界規模の団体へと成長させた。キリスト教・カトリック教会では聖人の一人とされる。

 

マザー・テレサ 年表

年表

西暦(年齢)

1910年(1歳)東ヨーロッパのコソボ州・ユスキュブにて、この地区では珍しい敬虔なキリスト教徒の両親の間に生まれる。

1928年(18歳)故郷のユスキュブを離れ、アイルランドにてロレト修道女会に入会。ダブリンで修道女としての基礎教育を受ける。

1931年(21歳) インドの地に渡り、カルカッタの「聖マリア高等学校」の教師となる。またダージリンにて修道女としての初誓願を行う。このとき修道名を「テレサ」とした。

1937年(27歳)終生誓願を行い、生涯修道女として過ごすことを誓う。このときから「シスター・テレサ」と呼ばれるようになる。

1944年(34歳)聖マリア高等学校の校長に任命される。

1946年(36歳)ダージリンに向かう列車のなかで「もっとも貧しい人のために働きなさい」という神からのお告げを受ける。

1948年(38歳)ロレト修道会を退会、学校も辞職してカルカッタのスラム街に移り住み、貧しい子供たちのために教室を開くようになる。

1950年(40歳)教え子たちがボランティアに集まったことや、地域の後押しもあり、テレサが創設した修道会「神の愛の宣教者会」がカルカッタ教区に認可される。この頃から「マザー・テレサ」と呼ばれるように。

1952年(42歳)ヒンドゥー教の廃寺院を国から譲り受け、修道会の最初のホスピス「死を待つ人々の家」を設立する。

1965年(55歳)インド全土に修道会の活動が広がったことで教皇により、国外活動の許可が下り、以降世界規模の活動を展開していく。

1971年(61歳)ヨハネ23世教皇平和賞・ケネディー賞を受賞。その後も平和貢献の証として数々の賞を受賞していく。

1979年(69歳)ノーベル平和賞を受賞。

1989年(79歳)心臓病を抱え、ペースメーカーの取り付け手術を受ける。

1991年(81歳)長年の夢としていた故郷のユスキュブに支部を設立する。

1993年(83歳)骨にひびが入る怪我、マラリアの感染など、健康を著しく害する。この年に心臓病の手術も受けている。

1997年(87歳)愛の神の宣教者会の総長を辞任。同年、カルカッタのマザー・ハウスにて息を引き取る。

 

マザー・テレサの生涯

21歳のころに念願を叶え、テレサは修道女としてインドに派遣されます。

そこから約17年間に渡り、カルカッタの聖マリア女学院にて、上流階級の女学生の教育を行いました。

単身スラム街へ

マザー・テレサの生涯のなかでもっとも大きな出来事といえば、彼女が聖マリア高等学校での教師生活を捨て、単身スラム街で働き始めたことでしょう。

テレサはどうして、慣れ親しんだ生活を捨ててまで、貧しい人たちへの奉仕に身を投じようと思ったのでしょうか。

彼女を突き動かしたものは、長く目の当たりにしてきたインドの現状でした。

当時のインド状況

当時のインドはイギリスからの独立の影響で、国内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化しており、特に混乱を極めた時代にあったのです。

もともと同じ国であったはずのインドとパキスタンは宗教の違いから分断され、領地を巡って印パ戦争が勃発。

宗教間の対立に反対していたマハトマ・ガンジーも暗殺されるなど、この時代には衝撃的な出来事が立て続けに起こっています。

死傷者の数も数百万人と多く、その時代背景はテレサの背中を押すには十分なものだったのでしょう。

もっともインドへ移り住むことは彼女自身が選んだわけですから、テレサが自身の意志で混乱の中に身を置くことを選んだといえます。

 

神の愛の宣教者会におけるマザー・テレサ

1948年から始まったテレサの奉仕活動は、彼女の没年である1997年まで、約49年間に及び、止まることはありませんでした。

死の間際まで修道会の総長として働き続けた

神の愛の宣教者会の設立から、インド全土への広がりを経て、団体が世界へ広がっていく様子から、当初の活動の著しさは見て取れますが、何よりテレサの凄みを感じさせるのは、彼女の晩年の振る舞いにあります。

テレサは70歳を超えた頃から心臓病を患い、ペースメーカーの取り付け手術を行うなど、この頃の状態はとても健康とは言い難いものでした。

彼女が修道会の総長職の辞任を申し出たのが1990年、ちょうど80歳の頃の話ですから、テレサは好ましくない健康状態の中、10年近くも弱音を吐かずに働き続けていたことになります。

そして彼女のさらにすごいところは、結局この年に再び総長の座に戻っていることです。

テレサの元で働くシスターたちは、彼女以外に修道会の総長が務まる人物はいないと考え、辞任したテレサを総長の座に引き戻しました。

その後没年の1997年まで、彼女は修道会の総長として、その役を勤め続けたのです。

修道会が世界へと広がっていく過程のテレサは、それは若さと活力に満ち溢れていますから、事を起こすパワーも十分にもっていたことでしょう。

しかし自らが弱っているときに、他人を想って働くというのは、やはり並大抵の人ができることではありません。

「マザー」はテレサのためにある呼び名

テレサが亡くなって、修道会の2代目総長に選ばれたのは、シスター・ニルマラでした。

キリスト教カトリックの修道女会では、総長職についた人のことを「マザー」と呼ぶのが通例です。

しかし2代目総長のニルマラは、テレサから総長の座を受け継いで以降生涯、マザーを名乗ることはありませんでした。

彼女いわく

「マザーの名はマザー・テレサただ一人にだけふさわしい」とのこと。

この意志は3代目総長のシスター・メアリーにも受け継がれ、彼女もまた、総長にしてシスターを名乗り続けています。

テレサが団体にとって重要な偉業を成し遂げたことは疑いようもありません。

しかし後継者がマザーを名乗らない風習を守り続けているのは、そういった偉業だけでなく、彼女たちがテレサのことを心底慕っていたからではないでしょうか。

テレサの利他の精神は、貧しい人たちだけでなく、共に働く仲間に対しても…いえ、きっと万人に対するものだったのでしょう。

 

きょうのまとめ

インドを巡る時代背景に突き動かされ、その後自身が没するまで50年近くに渡って行われたマザー・テレサの奉仕活動。

何よりテレサが総長であり続けることを望む、自身が後継者となっても、「マザー」を名乗ることを拒むなどのシスターたちの振る舞いが、修道会におけるテレサの在り方を物語っています。

世界中の人々を巻き込んでの奉仕活動は、やはりその人となりをもってしか、成し得ないことだったのではないでしょうか。

最後に今回の内容を簡単に振り返っておきましょう。

① テレサが過ごした時代のインドは宗教間の対立で混乱を極めていた。その時代背景が彼女を後押ししたのでは…

② テレサは87歳を迎える没年まで、心臓病を患いながらも総長職を全うし続けた

③ 「マザー」の名はマザー・テレサにのみ、ふさわしいとされ、後継者たちはシスターを名乗り続けている

マザー・テレサの献身的な姿は、彼女の後継者たちによって…そして彼女に感銘を受けた世界中の人々によって、末永く受け継がれていくことでしょう。

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