日本の政治の中心を貴族から武士へと変えていった戦乱の時代を駆け抜けた
源義朝。
一体どんな人物だったのでしょうか。
義朝にとって良かった時期、つらかった時期について見てみましょう。
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源義朝はどんな人?
- 出身地:不詳
- 生年月日:1123年
- 死亡年月日:1160年2月11日(享年38)
- 源義家以来の源氏を今一度盛り上げ武士の台頭に貢献するが、平治の乱で敗戦。無念の死を遂げた
源義朝 年表
西暦(年齢)
1123年(1歳)誕生
年代不明 東国へ下向する
1141年(19歳)長男・義平誕生
1147年(25歳)熱田神宮宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)頼朝誕生
1153年(31歳)下野守に任じられる、従五位下の叙位
1155年(33歳)弟の源義賢を長男の義平に討たせる(大蔵合戦)
1156年(34歳)保元の乱で父・為義、弟の賴賢と為朝と相対して勝利。左馬頭を兼任
1159年(37歳)平治の乱開始、播磨守に転任
1160年(38歳)尾張国で謀殺される
河内源氏を盛り上げた源義朝
義朝の父親の悪行
源義朝の父・源為義は、河内源氏の棟梁であり、京の警察といえる検非違使として白河法皇・鳥羽天皇に仕えていました。
しかし、数々の狼藉行為を繰り返す為義の家臣に対し、主人の為義は彼らを罰しません。
それどころか彼らを匿うなどしたため、職を失いました。
源義家時代の栄光は当時の為義の河内源氏にはなく、そんな父を持つ源義朝の少年時代は恵まれてはいませんでした。
東国で活躍し、父親を越える義朝
やがて、義朝は関東に送られ、そこで上総氏の庇護を受けて育てられます。
東国で成長した義朝は関東を拠点に活躍しました。
三浦義明、大庭景義などの有力豪族を従え、地元の有力者たちとも深く結びつきました。
対立していた関東の他の源氏たちとも同盟を結び、源義朝は20代半ばの若さで東国の実力者となったのです。
その名は京にも知れ渡り、ついには京で鳥羽上皇に仕えることになりました。
その後、熱田大宮司の娘・由良御前を正室に迎え、息子の頼朝・希義などが誕生しています。
由良御前の実家の後ろ盾もあって、31歳にて従五位下・下野守となった義朝。
これによって義朝は検非違使だった父親の為義の地位よりも高くなり、河内源氏が再び盛りを見せてきました。
義朝の苦しみ
保元の乱「父殺し、弟殺し」の義朝
保元の乱で源義朝は父親為義と弟たちを敵に回します。
仕えた主人が対立関係となっていたからです。
戦乱では義朝側が勝利し、負けた側の父親は、義朝の元へ出頭しました。
父の助命を自分の武功と引き替えに2度も願い出た義朝でしたが、それはかないません。
結局、船岡山付近で義朝自らの手で実の父親を斬首することになったのです。
のち、義朝は父と共に戦った弟たち5人も船岡山で処刑させられています。
さらに、「為義の息子は全て処刑しなければならない」との命令のため、さらに13歳を筆頭に11歳、9歳、7歳の4人の幼い弟たちまで部下に命じて殺させています。
このため、義朝はその後「父殺し、弟殺し」だと世間に非難され続けたそうです。
源義朝にとっての保元の乱の勝利は複雑なものだったに違いありません。
関連記事 >>>> 「保元の乱に勝った源義朝の憂鬱」
平治の乱 義朝、最後の戦いと無念の最期
戦乱は都の中で勃発しました。
最初こそ攻めていた源義朝軍ですが、平清盛軍の大軍に次第に押され、源氏軍は鴨川の河原に追い詰められました。
義朝は、討ち死に覚悟で突撃を試みますが、家臣の鎌田政家がそれを思いとどまらせます。
ついに義朝軍は崩壊。
無駄死にするよりは再起を目指すことにした義朝たちは、関東を目指して都を出ました。
目立たぬよう分散して行動し、義朝は主従8騎となって移動します。
途中、長男義平をまず先に飛騨へと走らせ、頼朝(14歳)とははぐれてしまいます。
重傷を負っていた次男の朝長(18歳)は先へ進めず、懇願されるがままに義朝が殺してやりました。
恩賞目当てに次々と襲ってくる村人たちを家臣が身をもって止め、残りの4騎となって義朝は進みます。
そして、尾張国までやってきた時、同行していた家臣の鎌田政清の舅にあたる長田忠致の屋敷に世話になりました。
しかし、恩賞に目が眩んだ長田忠致による手配で、義朝は湯殿で襲われ、闘うすべもなく無念の死を遂げます。
政清も酒を飲まされ、殺害されてしまいました。
関連記事 >>>> 「源義朝の最期の戦い「平治の乱」を理解する」
裏切り者長田父子に義朝の息子・頼朝がとった行動とは
長田忠致と景致父子は義朝と政清の首を持って平家に届けます。
ところが、平家による恩賞が不服だった長田父子は、義朝の所領全部か尾張一国を要求。
しかしその思い上がった態度に平家は激怒します。
「恩賞をなしにして、手指を切り落とし、首を鋸引きするぞ」
と言われて長田父子は国元に逃げ帰りました。
のちに源頼朝が平家追討の挙兵をした時、長田父子は重い刑罰を受ける覚悟で頼朝の前に出頭してきました。
しかし刑罰どころか頼朝は
「充分な働きを見せたなら、美濃・尾張を父子に与える」
約束をしたのです。
喜んだ父子は、平家との戦いで手柄を立て活躍しました。
平家滅亡後に頼朝は、父親義朝の菩提を弔います。
父親の最期の地・尾張の大御堂寺に廟所と七堂伽藍を建立し、1190年には盛大な法要を行ったのです。
その式の後、頼朝は長田父子に対し、
「約束の身の終わりをやろう」
と言って、義朝の墓前で松の木に磔にし、処刑したと言われています。
頼朝はついに親の仇を取ったのでした。
磔の松は、今でも大御堂寺(野間大坊)に残っています。
<大御堂寺(野間大坊)>
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きょうのまとめ
源義朝は、保元の乱、平治の乱に参戦したことで知られる武将ですが、今回は義朝の優秀さや、戦という残酷な行いの中でも特に義朝にまつわる非情な出来事についてご紹介しました。
源義経とは?簡単にまとめると
① 落ち目になっていた源氏の中で頭角を見せた河内源氏の棟梁
② 負け戦のあと、再起を目指そうとしながらも裏切りによって殺された無念の武将
③ 父殺し、弟殺しの張本人としての非難を死ぬまで受け続けた人物
③ 武士の頂点となり、自分の仇を取った武将・源頼朝の父親
でした。
親を殺し、弟を殺し、自身は謀殺された源義朝。
武士が台頭したこの時代ですが、武士とはこのように決して甘い職業ではありませんでした。
きっと源義朝はそれを身をもって知っていたはずです。
関連記事 >>>> 「源義朝の家系図から窺う源氏の修羅」
へぇ〜
頼朝が頼朝の墓前で長田父子を処刑したんですねぇ〜
ご指摘ありがとうございます!
修正しました。