源義家。
平安時代後期に活躍した源氏の祖とも言われる文武両道の武士でした。
義家についてそれほど知らない方も、五月の端午の節句のときに飾る兜に源義家の名が入っていたり、
昨今の刀剣ブームでゆかりの刀の名を耳にしたりしたことはあるかもしれません。
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源義家はなぜ神格化されたか
清和天皇の血をひくという清和源氏の中でも、八幡太郎義家こと源義家はちょっと特殊な位置づけです。
勇猛な武将として活躍し、またその性格は温厚で付き従う兵たちへの人望も厚かったという義家。
時代を経るにつれてその存在が神のように扱われていった人物なのです。
義家とはどこの人?
源氏は関東のイメージがあるかもしれませんが、それは鎌倉幕府を開いた源頼朝のインパクトのせいでしょうか。
清和源氏の血をひく人々の中には、摂関家の家人のようになって京で働くために、近いエリアを基盤にしている者もありました。
源義家は河内国、つまり大阪出身の武将でした。
なぜ八幡太郎と呼ばれたか
義家の別称として知られる「八幡太郎」。
義家は七歳の春に、河内に近い山城国の石清水八幡宮。で元服し。
自らを「八幡太郎義家」と名乗ったのです。
ちなみに長男だった義家には3人の弟がおり、
・三男の義光は近江の新羅神社で元服したので「新羅三郎」
・四男は出家
となっています。
のちに、義家の血を受け継ぐ源頼朝や足利尊氏なども、武勇に秀でた先祖である義家に畏敬の念を込め、八幡神の申し子として「八幡太郎」と呼びました。
そして源氏は八幡神を氏神とし、武神として各地に勧請(神仏の分霊を迎えて祀ること)して神社を作ったのです。
義家の雄々しさにあやかる兜や五月人形
現代、端午の節句に飾られる武将の兜や武者人形の中には、源義家の名のついたものも見られます。
男の子たちに強くたくましく育って欲しいと願う気持ちが、八幡太郎義家という武将に託されているのです。
なぜなら、源義家はとにかく戦いに強く、頼りがいのある武士でした。
彼は、1087年の後三年の役以外に、特に当時白河天皇が頭を痛めていた有力寺院の僧兵たちによる強訴を取り締まるために何度も出撃・活躍しています。
正式な官職にさえついていなかった義家が、その実力で天皇の側で護衛をすることも認められ、白河天皇が作る警護部隊「北面の武士」の下地を作っていったのです。
必ず勝ち、命令はやり遂げ、大きな心を持った武将・源義家は後世の人々の憧れとなりました。
それが現代の端午の節句の兜などに現れているのでしょう。
義家が持った天下の名刀
源義家を八幡神として敬う、源氏重代の刀と知られている名剣があります。
その名は「髭切」。
平安時代の武官貴族であり、多田源氏の祖・源満仲が作らせたという刀です。
変わった名前ですが、満仲が罪人を試し斬りしたときに、髭まで切れたというのがその由来です。
その後、満仲の嫡子源頼光に渡り、渡辺綱に貸し出された時に、綱が一条戻橋で鬼の腕を斬ったことから名前が「鬼切」となりました。
それから源頼義、そしてその子である源義家の手に渡ったのです。
のちこの刀は源頼朝にも渡り、源平合戦において源氏を勝利に導いた刀となりました。
頼朝の鎌倉幕府が成立した際には源氏の宝刀として奉られ、幕府が滅亡すると新田義貞、足利尊氏、そして最上氏へと伝わっていったのです。
その間「獅子ノ子」「友切」など名前を変え、再び「髭切」に戻るなどしています。
源氏にとって、義家も用いたというこの刀を所持することが、八幡太郎義家に続く源氏の本流であるという証明であり誇りでした。
この刀にまつわる話しは伝承も多く、実話は少ないかもしれません。
しかし髭切と呼ばれる刀は実在し、「重要文化財 太刀 銘 國(安)綱 鬼切/髭切」として北野天満宮に所蔵されています。
<北野天満宮>
きょうのまとめ
今回は、源義家に関わる兜や刀についてご紹介いたしました。
今回の簡単なまとめ
① 石清水八幡宮で元服した源義家は「八幡太郎」と名乗り、のち源氏の武神として子孫たちに畏敬された
② 武将・義家の雄々しさにあやかる形として、現代にも端午の節句の兜や五月人形としてあらわれている
③ 義家も使った名刀「髭切」は源氏重代の宝刀であり、北野天満宮に所蔵されている
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