「幕末の四賢侯」の一人に数えられる、松平慶永。
松平春嶽という呼び方のほうが、有名かもしれません。
彼はどんな人物だったのでしょうか。
今回は慶永の生涯について、簡単に紹介していきます。
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松平慶永はどんな人?
- 出身地:江戸城内・田安屋敷(現在の東京・千代田区北の丸公園)
- 生年月日:1828年9月2日
- 死亡年月日:1890年6月2日(享年63歳)
- 越前福井藩主として藩政改革、政事総裁職として幕政改革を推進。幕末の四賢候の一人に数えられた名君。
松平慶永 年表
西暦(年齢)
1828年(1歳)江戸に生まれる。(幼名、錦之丞)
1838年(11歳)松平斉善の養子となり、第16代越前福井藩主に就任。
1858年(31歳)隠居・謹慎を命じられる。
1862年(35歳)謹慎を解かれる。政事総裁職となる。
1863年(36歳)政事総裁職を辞任。参預に任命される。
1867年(40歳)四侯会議
1868年(41歳)内国事務総督・内国事務局輔となる。
1869年(42歳)民部卿・大蔵卿となる。
1870年(43歳)政界引退
1890年(63歳)死去
松平慶永(春嶽)の生涯
松平慶永(※)は田安徳川家当主・徳川斉匡の子として、江戸で誕生しました。
※ 松平春嶽とも呼ばれています。「春嶽」は雅号(=実名以外に付ける雅な名前)で、隠居後の通称です。
田安徳川家とは第8代将軍吉宗に始まる、「御三卿」の一つに数えられる家柄。
もしかしたら慶永も、将軍になっていたかもしれない人物だったということです。
越前福井藩の藩政改革
慶永は当初、伊予松山藩の松平家へと養子に出されるはずでした。
ところが越前福井藩主・松平斉善が急死したため、越前松平家の養子になることになったのです。
こうして慶永は、11歳にして第16代・越前福井藩主に就任。
身分に関係なく、優秀な人材を登用することにより、藩財政の立て直しなどに成功します。
詳しくは下記をお読みください。
関連記事 >>> 「松平慶永の名言に見える謙虚さこそが藩政改革成功の秘訣?」
隠居・謹慎の時代
さらに松平慶永は藩政のみならず、幕政改革にも意欲を示していました。
全国の大名たちを経済的に疲弊させていた「参勤交代の緩和」を求める建白書を幕府に提出。
さらに雄藩を幕閣に加えた、新しい政治の仕組みなども構想していたのです。
さて、当時の大問題の一つに、将軍継嗣問題というものががあります。
13代将軍家定は生まれつき病弱で、世継ぎが望めなかったからです。
この問題について慶永は、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す「一橋派」と呼ばれるグループに属していました。
「一橋派」には、慶永とは親戚に当たる老中首座・阿部正弘や当時の薩摩藩主・島津斉彬らがいます。
これ対抗するのは、彦根藩主・井伊直弼らを中心とする「南紀派」というグループ。
南紀派は、紀州藩主・徳川慶福を次期将軍に推していました。
ところが、家定が井伊直弼を大老に指名すると、事態は急転します。
井伊は勅許(天皇の許可)なしに日米修好通商条約を締結。
当時の大問題として、将軍継嗣問題の他に「開国」の問題もありました。
さらに自身が推していた徳川慶福を次期将軍としたのです。
それに猛反発した慶永は、井伊から隠居・謹慎を命じられてしまいました。
その謹慎期間は、4年にも及びます。
文久の改革
水戸浪士らによって、「桜田門外の変」(1860年)で暗殺された、井伊直弼の死後、
斉彬の跡を継いだ島津久光が藩兵千人を連れて上洛。
一橋慶喜を将軍後見職に、そして慶永を大老にという要求を朝廷に建言しました。
それから2ヵ月後、慶永は謹慎を解かれることに。
さらに2か月後、慶永は幕府から政事総裁職(大老に相当する役職)に任命され、政界復帰を果たすことになります。
慶永は慶喜とともに、幕政改革を推進していきます。
しかし尊王攘夷運動が台頭するにつれ、朝廷と幕府の板挟みになってしまった慶永。
苦悩の末、政事総裁職を辞任することになります。
慶永は勝手に福井に帰ってしまったので、幕府が罷免する形になりました。
関連記事 >>>「松平慶永・松代容保らが要職に!文久の改革について簡単に説明」
参与会議・四侯会議の解散
福井藩は尊皇攘夷派を排除するため、「挙藩上洛計画」を立てます。
ところが反対派などの活動によって、計画は急遽中止に。
この本来、福井藩が行うはずだった計画を実行したのが薩摩藩と会津藩でした。
その結果、京都から長州藩と過激な尊王攘夷派の公卿たちが追放されることになります。
この出来事を「八月十八日の政変」(1863年)と呼びます。
この年の10月、慶永は参預(=朝議を補助するための職)を務めるために上洛。
他にも、
・松平容保:会津藩主・京都守護職
・山内容堂:前土佐藩主
・伊達宗城:前宇和島藩主
・島津久光:薩摩藩主の父
らが参預に任命されています。
彼らによって組織されたのが「参預会議」と呼ばれる、合議制の組織です。
この会議では主に、
・横浜港の鎖港
について、話し合いが行われました。
ところが参預たちの意見が対立し、ほどなく参預会議は解散しています。
慶喜が将軍に就任した後、薩摩藩の主導によって「四侯会議」が開かれます。
その会議を構成するのは、
・島津久光
・山内容堂
・伊達宗城
と、参預会議とあまり変わらないメンバー。
彼らは、慶喜や摂政・二条斉敬に対して意見を述べる役割を担っていました。
しかし、この四侯会議も短期間で解散することになります。
大政奉還後
四侯会議をきっかけに、薩摩藩は武力倒幕へと舵を切ることになります。
この動きに対し、土佐藩は慶喜に大政奉還を建白。
慶永もこれに賛同しています。
明治新政府では議定、民部卿や大蔵卿などの重職を歴任。
ところがたった2年ほどで、政界を引退しています。
その後は文筆活動などを行い、静かに余生を過ごしたとされます。
そして1890年6月2日、東京の邸宅でで病気により亡くなりました(享年63)。
松平慶永にまつわるエピソード
それでは松平慶永にまつわる、有名なエピソードを3つご紹介します。
日本人で初めて自転車に乗る
幕末の1862年、ちょうど文久の改革が行われていた頃のこと。
慶永は江戸の福井藩邸にて、「ビラスビイデ独行車」に乗って楽しんだという記録が残っています。
ビラスビイデ独行車とは、三輪の自転車のことです。
三輪とはいえ、日本人として初めて自転車に乗ったのは、このときの慶永と言われています。
「青森りんご」も慶永のおかげ
さらにこれと同時期、慶永はアメリカからりんごの苗木を取り寄せました。
もともと日本には、りんご(西洋りんご)は自生していなかったのです。
その苗木は、江戸巣鴨の藩邸に植えられました。
それから接ぎ木した苗木を、入手したのが津軽の旅籠屋・平野慶太郎という人物。
平野は津軽に持ち帰り、苗木を植えたのが「青森りんご」の発祥と言われています。
元号「明治」の名付け親
さらに慶永は、明治という元号の名付け親とも言われています。
もとは中国の書『易経』にある、
聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む
(引用:明治神宮「「明治」の由来は何ですか?(「大正」、「昭和」、「平成」の由来は?)」
から「明」と「治」の字を取ったといわれています。
他にもいくつかの候補が用意されており、天皇自らくじで引き当てたのが「明治」でした。
意外ですが、くじ引きで決まっていたのですね。
きょうのまとめ
今回は松平慶永(春嶽)の生涯について簡単にまとめましたが、いかがでしたでしょうか。
松平慶永とは?
① 越前福井藩主として藩政改革を行い、優秀な人材を登用した
② 文久の改革では政事総裁職にを務めるなど、幕末の政治に深く関わった
③ 明治新政府でも要職を歴任した
④ 日本人として初めて自転車に乗り、西洋りんごの苗を植えた人物でもある
⑤ 「明治」の名付け親と言われている
こちらのサイトでは他にも、幕末に活躍した人物についてわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってください。
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