幕末の1862年、幕政改革(=幕府の政治改革)が行われました。
当時の元号が文久であったことから、その改革は「文久の改革」と呼ばれています。
松平慶永が政事総裁職に就任した文久の改革。
そこで今回は文久の改革はどのような経緯で行われ、何が変わったのか、簡単に説明していきます。
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文久の改革とは?
文久の改革のきっかけはやむを得ず・・・
幕政改革というと、当時の情勢に危機感を持った
江戸幕府が自主的に行ったのでは? と考えたくなります。
しかし文久の改革は、江戸幕府が自ら進んで行ったのではなく、
勅命(天皇の命令)によって実施されたものでした。
さらにその勅命を出すように働きかけたのは、薩摩藩主・島津忠義の父、
島津久光という人物。
当時の久光は、幕府の政治に参加しようと考えていたのです。
島津久光の上洛
1862年、久光はおよそ千人の兵を率いて上洛(京都に行くこと)し、朝廷に幕政改革を建白します。
そして当時の孝明天皇はこれを認め、勅書を下しました。
さらに久光は勅使・大原重徳と一緒に江戸へ向かい、幕府に改革を要求したのです。
これが幕府側への圧力となり、やむを得ず行うことになったのが文久の改革だったというわけです。
どのような改革が行われた?
それでは文久の改革が行われたことにより、いったい何が変わったのでしょうか。
職制改革
まずは、人事面が大きく変わりました。
幕府は、
- 一橋慶喜(後の徳川慶喜) → 将軍後見職(将軍を補佐する役職)
- 松平慶永(春嶽とも呼ばれる/前越前藩主) → 政事総裁職(大老に相当する役職)
- 松平容保(会津藩主) → 京都守護職(京都の治安維持にあたる役職)
に任命しています。
慶永が就任した「政事総裁職」とは、文久の改革で新たに設置された役職です。
その理由は、大老は譜代大名から選ばれるのが通例。
ところが、慶永はそれより上の親藩大名であったため、新たに設ける必要があったのです。
また、松平容保の就任した「京都守護職」も新設されたポジション。
一時は慶永が就任していたものの、再び容保が再任することになりました。
なお、この支配下にあったのが、あの有名な「新撰組」です。
参勤交代の緩和
また全国の大名を経済的に苦しめていた、参勤交代の緩和も図られました。
それまでは1年おきだった参勤交代を、3年に一度で良いことにしたのです。
さらに、江戸にいなくてはいけない期間を1年から100日に短縮。
また、それまでは江戸に置いておかなければならなかった妻子も、国元に帰ることを認めたのでした。
軍制改革と学制改革
さらに、軍事と教育についての改革も行われています。
西洋式陸軍である幕府陸軍を設置したり、西洋式の軍事制度を導入。
また「蕃書調所」(旗本の子弟や藩士が学んだ教育機関)を「洋学調所」と改め、洋学研究を推進しました。
きょうのまとめ
今回は文久の改革について、簡単に紹介しました。
② 一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永が政事総裁職、松平容保が京都守護職に任命された
③ 参勤交代の緩和・軍制改革・学制改革などが行われた
こちらのサイトでは他にも、松平慶永(春嶽)にまつわる記事を書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくだい。
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