フランス王国とハプスブルク帝国(現オーストリアと周辺)の
同盟強化を目的とした政略結婚のために、14歳の若さでフランスに渡り、
フランス革命によってその人生を翻弄された悲劇の王妃マリー・アントワネット。
彼女の死刑判決はどのような理由で下されたのでしょうか。
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マリー・アントワネットの革命裁判
1793年1月、革命裁判でたった1票差で死刑判決が下り、
斬首刑とされた夫ルイ16世。
その後、アントワネットも同じく革命裁判にかけられることになります。
その裁判は10月12日から3日間に及びます。
裁判所に現れたアントワネット。
かつての華やかで美しい王妃の姿は見る影も失い、擦り切れた喪服に、白いリネンのナイトキャップ。
「真珠のように美しい」と言われた艶やかな白い肌は青白く、やつれきっていました。
しかし、彼女は王妃としての誇りを忘れず、矢継ぎ早の質問に毅然と完璧に答えます。
そして、その裁判の主な争点と判決理由は、
- 王妃の莫大な浪費
- オーストリアと秘密裏に連絡を取っていた
- 息子への虐待疑惑
でした。
果たして彼女は本当に死刑に処されるほどの罪を犯していたのでしょうか?
死刑判決の3つの理由
理由①王妃の莫大な浪費がフランスを財政破綻に追いやった!
アントワネットは、その豪華絢爛な生活ぶりから、
彼女こそがフランス財政を破綻に追いやる根源、
「赤字夫人」とまで揶揄されていました。
しかし彼女はたった一人で、ヨーロッパ有数の大国・フランス王国の
財政を破綻することができたのでしょうか?
実は、当時の財政破綻の理由は「莫大な軍事費」だったそうです。
というのも、ルイ15世時代から既に慢性的な財政難にあったフランス。
ルイ16世即位後には、敵国イギリスが、アメリカ独立戦争を推し進める中、アメリカに軍事支援をしたり、海軍力強化のための軍港を新たに建設したり、軍事費が膨大にかかっていました。
マリー・アントワネットは確かに豪華絢爛な生活をしていたとはいえ、それは今までの王族もしていたこと。
そしてそれがフランスを破綻に追いやるというのは、
全くの誇張だったのです。
理由②オーストリアと秘密裏の交渉をしていた!
当時、革命派の暴徒化が激化し、多くの貴族が国外逃亡を始めていました。
更には革命派はいくつかの勢力に分裂し、勢力同士での激しい対立や
虐殺行為もはじまり、時代は完全に「恐怖政治」への道へ進んでいました。
そんな狂乱した状態の中、王妃として彼女があらゆる手を尽くして、
この革命を鎮めようとした行為は当然であったのではないでしょうか。
理由③息子を虐待していた!
この裁判はもともと、形だけの裁判でした。
というのも、革命派としては何としてもアントワネットの罪を理由付け、
処刑を下し、革命の力を見せつける必要があったのです。
彼らは嘘八百の疑惑を並べ、なんと
「アントワネットと義妹エリザベートが、息子シャルルに性的虐待をしていた」というあるはずもない理由まで並べました。
この尋問に対し、アントワネットは
と公然と反論し、法廷を傍聴していた女性たちの深い理解を得たと言われています。
きょうのまとめ
簡単にまとめます。
マリー・アントワネットの死刑の理由とは
② オーストリアと秘密裏に連絡を取っていた
③ 息子シャルルへの虐待
でした。
3日間に及ぶ激しい裁判の間、彼女は毅然と王妃としての尊厳を示します。
しかし、時代は狂乱の恐怖政治時代。
3日後の10月15日、彼女は根も葉もない理由を並べられ、死刑判決を言い渡されます。
そして、翌日10月16日。
夫ルイ16世の処刑時と違い、アントワネットは髪を短く刈り取られ、
後ろ手を縛られ、動物用の荷台に乗せられてコンコルド広場へ移送されました。
あまりにも理不尽な死刑判決が彼女を悲劇の死へと追いやったのです・・・。
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「根も葉もない理由」の部分が知りたくてきたのに書いてなかった
ご覧いただきありがとうございます!
ご期待に沿えず、すみません。
「根も葉もない理由」については、本文記載の3つの理由になりますが、
もっと詳細な内容ということでしょうか。