オーストリアの事実上の女帝となった
マリア・テレジア。
彼女は20年間の間に、16人もの子どもを誕生させました。
中でも、フランス革命の露と消えた「マリー・アントワネット」は有名です。
「マリア・テレジアの家系図」から、16人の子どもたちの人生を探ります。
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なぜマリア・テレジアは子どもを多く産んだのか?
マリアテレジアの兄が亡くなってから男子を授かることはありませんでした。
ハプスブルク家は男系相続を定めていたため、事実上ハプスブルク家の血族が王位相続をできなくなったのです。
当時は、天然痘などの伝染病で生まれた子どもの約半分は成人することなく亡くなっていました。
長男が亡くなっても二男が継ぐ、2人とも亡くなっても三男が継げばよいと、王位相続のため多くの子どもを産むことが重要と考えていたからです。
マリア・テレジアの父と夫
まずは、マリア・テレジアの父と夫をご紹介いたします。
- 父:カール6世(1685~1740)
神聖ローマ皇帝(1711~1740)。
マリア・テレジアの父で、ハプスブルク家最後のローマ皇帝。世継ぎが出来ることなく胃がん(推定)でこの世を去っています。
- 夫:フランツ1世・シュテファン(1708~1765)
神聖ローマ皇帝(1745~1765)。
温厚な性格で、女帝マリア・テレジアを支えた夫。学問や芸術、産業や経済の安定を目指し、オーストリアの資産を増やした人物。
マリア・テレジアの16人の子どもたち
16人の子どもたちを生みますが、成人を迎えられたのは4人の息子と6人の娘の10人でした。
子どもたちを平等に愛することができなかった、マリア・テレジア。
そんな母を持つ子どもたちは、こぞってテレジアの愛情を得ようと競いました。
赤字(女) / 青字(男)
- マリア・エリザベータ(1737~1740)
3歳で亡くなりました。
- マリア・アンナ(1738~1789)
プラハのエリーザベト修道院長。
テレジアの継承者として期待されますが長男のヨーゼフの誕生により肩身の狭い人生を送りました。
アンナは優秀な女性でしたがそれが仇となり、テレジアから愛されることはありませんでした。くる病を患い体が弱かった彼女は、テレジアが行った政略結婚の役に立つこともできなかったのです。
テレジアは身体的ハンディを負ったマリアのために、修道院を建て院長に推しますがマリアは断りました。父の愛情だけが頼りだったマリアは、父の死後は自分の意志でエリーザベト修道院に入ります。
修道院に入ってからは、みんなから愛され幸せに暮らしました。
- マリア・カロリーナ(1741~1790)
2歳で亡くなりました。
- ヨーゼフ2世(1741~1790)
神聖ローマ皇帝。
ハプスブルク家待望の長男として生まれ、全ての人に愛されて幼少期を送りました。父の後を継承するも啓蒙思想の影響を受け、典型的な啓蒙専制君主となりました。このことで、テレジアとの間に亀裂が生じます。
テレジアが嫌っていた、プロセイン王国のフリードリヒ2世をお手本に政治を行おうとしたことも要因でした。溺愛していた妹の「マリー・アントワネット」の夫婦仲が上手くいかなかったときに、仲介役を買って出て二人の仲を取り持っています。
- マリー・クリスティーネ(1742~1798)
ポーランド王・ザクセン選帝侯アルベルト・カジミールと恋愛結婚。
クリスティーナは、テレジアのお気に入りで、「ミミ」と愛称をつけられ寵愛を受けて育ちました。さまざまな才能にも恵まれており、特に水彩画の才能は秀でていました。
父のフランツからアルベルトとの恋愛を禁止されていました。父が亡くなった翌年に、財産が乏しいテレジアの又従兄のアルベルトと、膨大な持参金をもって結婚しています。兄弟の中で唯一恋愛結婚を許されました。
テレジアは、ミミを自分のそばに置きたかったがために、夫のアルベルトをハンガリー総督にした上で、プレスブルクに住まわせています。しかも、クリスティーネ以外の娘は全て、フランスとの同盟関係維持のため、ブルボン家へ嫁がせています。
実は彼女には告げ口癖があり、兄弟からは総スカンを喰らってしまいました。
- エリザベータ(1743~1808)
インスブルックの尼僧院長。
姉妹で一番美しい女性でした。その美しさは数多くの貴公子から結婚の申し込みが殺到するほど。
彼女はルイ15世との政略結婚が決まっていました。しかし24歳のときに天然痘にかかり、顔にも痘痕が残ってしまいます。政略結婚の話は消滅しました。(この政略結婚は、祖父と孫ほど年齢が離れていたこともあり、フランス王の妾「デュパリィ婦人」の反対により破談になっていたとの説もあります。)
その後は、テレジアから冷たく扱われるようになります。エリザベータは生涯独身をとおしています。
姉のアンナ(2子)と同じく、インスブルック修道院に入り、終生尽くしました。
- カール・ヨーゼフ(1745~1761)
有能な男の子で、テレジアのお気に入り。
15歳で天然痘にかかり、死亡しています。
面白い逸話が残っています。自分の方が兄より優秀だと分かっていたカールは、長男ということで誰からも崇められる姿を見て嫉妬し発した言葉です。
「お兄ちゃんが生まれたときは、パパはトスカーナ公でしかなかったでしょ。でも僕が生まれたときは皇帝だったんだぞ。」
と、鼻高々に言ってのけたようです。兄弟げんかも、かわいらしいものですよね。
テレジアは、溺愛していたカールが亡くなったときは、しばし呆然としたものの悲しむ暇はありませんでした。翌年にはアマーリエを産み、次々と子孫を増やしていきました。
- マリア・アマーリエ(1746~1792)
素直でいい子に育ったアマーリエは、テレジアの政略結婚の餌食になった娘です。
彼女は、22歳で大恋愛をします。しかし、テレジアに許されず、イタリアパルマ公フェルディナンド・ボルボーネと強制的に結婚させられました。しかも、結婚相手のパルマ公は病弱で知力の乏しい人物。彼女はいじけてしまい、生活もやりたい放題の荒れ放題でした。
しかも、国政まで無茶苦茶にしてしまう始末。テレジアに手紙で叱責されるも、いうことを聞かず、最終的には勘当されました。
最後は、アヘン中毒になり修道院送りになっています。
- レオポルド2世(1747~1792)
神聖ローマ皇帝。
父の遺領を継いで、トスカーナ大公国の領主になり25年統治します。テレジアの摂政が終わったとき、彼はトスカーナで啓蒙を主とする改革を行いました。
彼の功績といえば、ヨーロッパで初めて死刑を廃絶したことです。他にもトスカーナを、イタリアで一番の先進国へと押し上げています。しかも、ルネッサンスが花開いたフィレンツェからも、「ピエトロ・レオポルド」と称賛されたほど素晴らしい改革でした。
さすがテレジアの息子!
1790年に兄ヨーゼフ2世が逝去したときに嫡子がおらず、レオポルドが帝位を継ぎました。しかし、たった2年で死去してしまいます。
- マリア・カロリーネ(1748~1748)
0歳で亡くなりました。
- マリア・ヨハンナ(1750~1762)
天然痘にかかり、12歳で亡くなりました。
- マリア・ヨゼファ(1751~1767)
ナポリ王国への輿入れが決まり、いよいよ出発というときに、天然痘にかかり死亡しています。
- マリア・カロリー(1752~1814)
ナポリ王妃。
姉の代わりに、ナポリ・シチリア王フェルディナンド1世と政略結婚。母テレジアと同じく、16人の子どもを設けています。
彼女もまた、夫に苦しめられました。王は粗暴で無教養だったため、しっかり者だったカロリーナが仕切るほかありませんでした。スペインからナポリ王国を解放させるなど、さまざまな功績を残しています。残念なことに、ナポレオンが攻め込んできたことで亡命せざるを得ませんでした。
亡命先のウイーンで亡くなりました。
- フェルディナント・カ-ル・アントン(1756~1806)
モデナ皇女のマリア・ベアトリックスと結婚。
エルコレ3世モデナ公の相続人に指名されるも、ナポレオンの侵攻により即位は叶いませんでした。
問題児で、彼のだらしない行動を
「お前はならず者か。私の代理を務める総督がそんな行いをするなど呆れてしまう。」
と、テレジアに容赦なく手紙で叱責されています。フェリディナントは、ミラノの総督も兼ねています。
テレジアは、火事で灰となった“テアトロ・ドゥカレに代わる劇場を”と、平和の殿堂として「スカラ座」を創建しました。
- マリー・アントワネット(1755~1793)
フランス王妃。
皆さんご存知、ルイ16世と結婚しフランス王妃となった人物です。フランス革命でギロチンの刑に処せられました。
- マクシミリアン・フランツ(1756~1801)
ケルン選帝侯。
彼は聖職者の道を歩み、生涯独身で過ごしています。1784年4月15日にケルンの大司教となりました。
作曲家のベートーベンのパトロンでもありました。ベートーベンが青年だったころにウイーンに紹介しています。庶民から「太っちょのマクシィ」と呼ばれていました。
きょうのまとめ
「ハプスブルク家」の女帝マリア・テレジアの家系図をご紹介しました。
テレジアの政治的才能を引き継いだ息子たちの活躍と、
恋愛結婚も許されなかった娘たちの犠牲により国の平和が維持されたような気もしてきます。
「女帝マリア・テレジアの子どもたちは、富と名声はあっても果たして幸せだったのか…?」
と、思うのは私だけでしょうか。
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