前島密とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

一円切手のおじいちゃんこと、前島密

近代郵便制度の基礎を作り上げた人物、くらいのイメージしか持っていない方が多いのではないでしょうか。

実は他の分野でも功績を残していて、人々の暮らしを便利にした偉大な人物なのです。

本当にありがたい前島密とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

前島密はどんな人?

  • 出身地: 越後国(現在の新潟県)
  • 生年月日: 1835年2月4日
  • 死亡年月日: 1919年4月27日(享年 85歳)
  • 幕臣から明治新政府の役人になった人物。近代郵便制度や電話事業などを創始した。
  • 前島密 年表

    年表

    西暦(年齢)

    1835年(1歳)越後国の豪農・上野家の次男として生まれる(幼名、房五郎)。

    1847年(13歳)医学を学ぶため、江戸へ出る。

    1866年(32歳)幕臣・前島家の養子となる。

    1869年(35歳)明治政府に出仕する。

    1870年(36歳)イギリスへ留学する(~1871年)。

    1871年(37歳)郵便事業を創業する。

    1881年(47歳)明治十四年の政変で下野し、立憲改進党の結成に参加する。

    1887年(53歳)東京専門学校(のちの早稲田大学)の校長となる。

    1888年(54歳)官界に復帰する。

    1890年(56歳)電話交換事業を開始する。

    1919年(85歳)没する。

    人々の生活を便利にした前島密の生涯

    前島密は越後国(現在の新潟県)の豪農・上野助右衛門の次男として誕生しました。

    しかし同年には父親を亡くし、母親の実家で暮らし始めます。

    医学を志していた少年時代

    前島密は母・ていからの教育に加え、糸魚川藩(現在の新潟県糸魚川市)の藩医だった叔父からの影響により、医学を志します。

    そのとき、前島密は数え年で8歳でした。

    さらに11歳になると高田藩(現在の新潟県上越市)の儒学者・倉石典太に教えを受けるため、母と離れて生活を始めています。

    そして13歳の頃には、オランダ医学を学ぶために江戸へと旅立ちました。

    黒船来航で人生が変わった?

    江戸へ出てきたものの、お金がなかったという前島密。

    生活のため、政治や西洋の事情などの本を書き写すという仕事をしながら学問を続けていました。

    このときに得た知識が、その後の人生に役立ったと言われています。

    1854年、前島が二十歳のとき、歴史的大事件が起こりました。

    ペリーの黒船来航です。

    これがきっかけで国防の重要性に気付いた前島は、日本全国の港湾を見て回る旅に出ます。

    その後は英語・西洋砲術・数学・航海術なども学びました。

    そして前島密32歳のとき、幕臣であった前島家の養子となります。

    大政奉還後は駿河藩の公用人となりましたが、明治新政府からの要請で出仕することになりました。

    明治新政府入り

    明治新政府に出仕した前島は、民部省の改正掛(かいせいかかり)(※)で働きはじめます。

    ※日本を近代国家にするための企画立案を行っていたところです。

    やがて駅逓司(えきていし)という、交通通信を司る役所の実質的なトップに就任しました。

    そのとき前島密が気づいたのが、通信・交通のインフラ整備の必要性でした。

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    イギリスへ渡ることとなった前島は、現地で郵便制度を十分に視察して帰国します。

    そして近代郵便制度のルール作りを行い、誰でも自由に使える制度を整えました。

    その後は郵便事業にとどまらず、海運・運送業の振興にも努めます。

    ですが明治十四年の政変(※)で、前島密は大隈重信とともに政府を去り、立憲改進党の結成にも参加します。

    ※明治十四年の政変とは、大隈重信と大隈派の官僚を追放したことです。

    さらには大隈がつくった東京専門学校(現在の早稲田大学)の校長を務めたこともありました。

    その後、官界に復帰を果たした前島は、電話交換業務に尽力。

    晩年は神奈川県横須賀に隠居、のんびりと余生を過ごしたそうです。

    そんな前島密は享年85歳にして、この世を去りました。

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    前島密にまつわるエピソード

    漢字って難しいからなくさない?

    突然ですが、漢字は得意ですか?

    学生時代、漢字の勉強にどれだけ時間を費やしていましたか?

    たとえ大人になっても、読めない難解な漢字も多いですよね。

    ならば漢字をなくしてしまえばいい! と主張したのが前島密でした。

    慶應二年(1866)には、時の将軍・徳川慶喜に「漢字御廃止之儀」を建白しています。

    どうやら、アメリカ人宣教師から漢字の難しさについて指摘を受けたという前島。

    日本が西洋に比べて文明が遅れたのは、教育の普及を漢字が妨げたからと考えていたようです。

    結局それは実現することはありませんでしたが、「国字改良」に対する意見の先駆けとなりました。

    今あるものを活用してできた郵便制度

    近代郵便制度を作ろうとしたとき、あなたならどのように仕事を進めますか?

    残念なことに、あまりお金はありません。

    時間もかけたくありません。

    ただし、目の前には飛脚という、江戸時代の通信システムがあります。

    となると、従来のシステムを利用しない手はありませんよね。

    もともと飛脚には、(1)幕府の公文書を運ぶ「継飛脚」と(2)民間が営業する「定飛脚」が存在していました。

    しかし(2)定飛脚は有料でしたが、(1)継飛脚は無料だったそうです。

    そこで前島密は従来の飛脚というネットワークを使いながらも、

    サービスを利用する人全員から平等にお金を取るという制度を作り上げました。

    身分や肩書などは関係なく、みんなが平等に郵便制度を使えることになったのです。

    今となっては当たり前の「郵便」ですが、かつての人々は文書ひとつ送るのも大変だったのですね……。

    きょうのまとめ

    最後までお読み頂きありがとうございました。前島密についていかがでしたでしょうか。

    前島密とは?

    ① 医者を志していたが、黒船来航を機にほかの分野の勉強を始めた

    ② 郵便・電話・海運・運送・教育などの分野で実績を残した

    ③ 難解な漢字を廃止しようとしたり、従来のシステムを活用したりと、合理的な人物だった

    と言うことができます。

    その他の記事についても前島密にまつわる色々な記事を書いています。

    よろしければどうぞ御覧ください。










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